「矢合の萩寺、見頃は9月中頃まで」。そんな新聞記事で出掛けてみた。 僕の家からバスで2駅、すぐ近くなのだが。途中の船橋で稲穂と鈴鹿の山を眺める。 秋なんですね。 |
萩寺は臨済宗円光寺。 開山禅師宗興は中島城主、中島蔵人の子。出家して, 鎌倉の建長寺で修行。一ノ宮の妙興寺創建。尾張国分寺堂を建立。 この円光寺で没する,1382年。 当地は尾張国の国分寺の故地。鎌倉時代は萩園村と称された。 小学2年の遠足で矢合へ来た。周囲一面水田なのだが、 この矢合の集落だけが松林でおおわれ、砂山があった。 とても不思議だったことを覚えている。 |
萩の花は8月終りから9月初旬が最盛期。境内では落花を掃き集めていた。 |
小学6年の頃、国分寺跡の発掘が行われた。近くだったんで 見に来た。途中、考古学の学生さんに道を訪ねられた。 二人で発掘現場まで歩いた。学生さんは足を怪我して 白い包帯を巻いた足に下駄をはいていた。今でも、鮮やかに覚えている。 国分寺跡は矢合の集落の南の田の中だった。 |
この写真の蛇行しているのが三宅川。かって、木曽川の本流であった。左下の島のような所の中心が矢合村、写真右上端に国府宮。
国府が置かれた平安時代、尾張国の中心であった。 続日本書紀 神護景雲元年(767)正月二十八日 「尾張国飢(ウ)エス。之ヲ賑給(シンゴウ)ス」 神護景雲元年(767)十二月二十四日 「美濃国、此ノ年亢干シテ、五穀実ラズ。百姓ノ負ウ所ノ租税ヲ除ク」 神護景雲三年(769)八月九日 「尾張国、海部.中嶋ノ二郡ニ大水アリ。最モ貧シキ者ニ穀人ゴトニ一斗ヲ賜ウ」 尾張大国霊神社のはだか祭は護景雲元年(767)より始まるとされる。 この前後、大水害があったもようである。美濃国では大干ばつがあったと認められる。 その後、木曽川は流れを変えるのだが、この地にはこんな歴史があった。今では 三宅川は小さな川にすぎないのだが、こうして大地にはっきりと歴史を刻んでいる。 |