国府宮儺追神事

(こうのみやなおいしんじ)

 


稲沢市国府宮、尾張大国霊(おわりおおくにたま)神社で、旧暦正月13日に行われる祭り。
一般に裸祭(はだかまつり)と称している。祭日は変遷なく踏襲されている。
現行の行事の概要は、以下のようになる。

旧暦正月2日(以下月日は旧暦)、楼門(ろうもん)前と二の鳥居の傍らに儺追神事(なおいしんじ)と墨書(ぼくしょ)した標柱(しめばしら)を建てる。ここに神事(しんじ)が行われることを標示する。
同日祈祷(きとう)と神籤(みくじ)によって、志願者の内より唯一人の儺負人(なおいにん)(一般には神男(しんおとこ)という。)を決める。
儺負人には差定符(さしさだめふ)と称する儺負人である証(あかし)を、榊(さかき)に取り付け差し渡し、参籠(さんろう)まで身を謹(つつし)み、忌服(いみ)にふれないように注意を与える。
次に断髪式を執行する。

7日、その年の大鏡餅(おおかがみもち)奉納奉賛会に決まった市町村において、50俵取りの大鏡餅が早朝より搗(つ)き始められ、一日がかりで出来上がる。
この日には、宮司(ぐうじ)と共に儺負人も会場に出向し、杵(きね)をふるう。まことに壮観な餅搗(ひょうとう)風景を呈するのである。
 
10日、午後5時、儺負人が参籠(さんろう)する。
前述の差定符を持ち、親族等の送り込み人に付き添われ、神社に到着する。宮司に差定符を渡し、挨拶のあと潔斎(けっさい)に入り、本社並びに儺追殿(なおいでん)を参拝する。そして、3日3晩儺追殿に籠(こ)もることになるのである。

11日、本殿側にて、宮司自らが土餅(つちもち)(灰餅(はいもち)ともいう)を搗(つ)く。
神灰(しんぱい)を包み込み、外側を灰でぬった真っ黒な餅であり、あらゆる罪穢(ざいさい)を搗(つ)き込んだものと考えられ、夜儺追神事(よなおいしんじ)に用いる神聖な餅である。
続いて宮司は、本社大床(おおゆか)に進み、一宮真清田(いちのみやますみだ)神社・二宮大縣(にのみやおおあがた)神社・三宮熱田(さんのみやあつた)神宮そして総社(そうしゃである尾張大国霊神社四柱の御神名を認める祕符認(ひふしたため)と称されるものを御鉄鉾(おてっしょう)に結びつける。鉄鉾とは、節刀(せっとう)のなまりと伝えられ、勅命とともに賜る節刀をかたどった木刀(もくとう)と、御神宝(ごしんぽう)の大鳴鈴(おおなるすず)とを結び付けた、六尺を越える大榊(おおさかき)である。これは、この神事の神籬(ひもろぎ)とも見るべきものである。

12日、前述の大鏡餅が奉賛会員の手によって、拝殿中央に奉納される。
相前後して、各地域、各有志毎の奉賛会からは、5俵取りの餅が、約30程運び込まれる。拝殿は鏡餅で埋めつくされることになる。これらの餅は、14日に細かく切られ、参拝者に授与される。これらは厄除け(やくよけ)の餅として信仰されている。
同12日7時、浄暗(じょうあん)のしじまの中、庁舎(ちょうや)神事が執行される。庁舎は政所(まんどころ)ともいい、境内(けいだい)東南にある臨時斎場であり、国司(こくし)のおかれた時代の祭祀(さいし)を偲(しの)ばせるものである。この庁舎(しょうや)に、大鳴鈴(おおなるすず)の音も清々(すがすが)しく、司宮神(つかさみやのかみ)を仮殿(かりでん)に御動座(ごどうざ)し、神籬(ひもろぎ)には一宮・二宮・三宮・総社の神々を招き、国家安穏(こっかあんのん)・五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈るのである。
御神座(ごしんざ)の周囲は白布(はくふ)を以て覆(おお)い、外側は樫(かし)の枝葉(しよう)を以(もっ)て壁(かべ)となし、床は土間(どま)に真菰(まこも)を以て敷(し)きつめることになっている。燈明(とうみょう)またたく中、儺負人も玉串(たまぐし)を奉(たてまつ)る。前夜祭ともいえる祭儀(さいぎ)である。 

13日午前5時、儺負人に大役果たたせ給えとの一番祈祷を修し、終了と共に厄除けの祈祷を受ける男女が列をなし、終日続く。境内は、なおいぎれやお守りを受ける参拝者で雑踏をきたす。なおいぎれとは、厄除けの護符(ごふ)で、儺負人が厄(やく)を一身に引き受けるのだと信じ、自ら裂(さ)いて祈祷をこめた布ぎれである。

午後になると、各地区毎に裸男が群をなし、なおい笹を担(かつ)いで拝殿へと駆(か)け込んでくる。
なおい笹は裸になれない老若男女の氏名年齢を書いて祈念をこめた布を結びつけた竹笹(たけざさ)のことで、色どり深く勇壮なものである。なおい笹を無事納めた裸男等は、寒風の中もみ合いへし合いして儺負人の登場を待つ。
 
午後3時、本殿において儺追神事が執行される。境内からの裸男等の雄叫び(おたけび)が怒濤(どとう)のように響いてくる中である。宮司祝詞奏上(ぐうじのりとほうじょう)・玉串拝礼(たまぐしはいれい)の後、大床(おおゆか)に奉安(ほうあん)されていた前述のお鉄鉾が、鉄鉾所役の禰宜(ねぎ)の手によって、祭文殿(さいぶんでん)の御扉(おんとびら)に仮奉安(かりほうあん)される。そのお鉄鉾を、まず宮司が拝礼し、続いて儺負人が拝礼する。
つぎに御神酒(おみき)を拝戴(はいだい)する。この神酒は、古来一夜酒(いちやざけ)を用いることになっている。
続いて禰宜がお鉄鉾を奉持(ほうじ)し、儺負人の前に進み、頭上にそれを打ち振ること三度、大音声(だいおんせい)を以て「これより儺追(なおい)捕り場へ」と下知(げち)を下す。
儺負人並びに警護の者等が「オー」とこたえ、拝殿を退いていく。これから渦に飛び込む準備である。
儺負人は、生まれたままの赤裸々無垢(せきららむく)の姿となって飛び込むので、体毛(たいもう)を落とし、下帯(したおび)もつけない。
境内参道には、萬余(ばんよ)の裸が今や遅しと待ち構えている。なおい笹が納(おさ)まり終わると、手桶(ておけ)集団が手桶を頭上にかざして参道に入ってくる。
本殿においては、お鉄鉾を奉持した禰宜、お鉄鉾に陪従(ばいじゅう)する宮司が、拝殿南に南面して立ち、諸員(しょいん)は本殿大前(ほんでんおおまえ)に伺候(しこう)している。
儺負人が裸群(らぐん)に飛び込むと同時に、禰宜は鉄鉾を打ち振り始め、大鳴鈴の音絶(た)えることなく儺負人の無事をひたすら祈り続ける。
裸男は、儺負人に触れて厄を托(たく)し、厄を落とそうと、突進する。信仰を一途(いちず)にする、全くの肉塊(にっかい)の乱闘である。
手桶集団が白龍(はくりゅう)のようにぶっかける水は、直ちに湯煙(ゆけむり)となって立ちのぼり、歓声は四方(よも)に響動(きょうどう)し、壮絶(そうぜつ)そのものである。人垣(ひとがき)をつくった観衆は、ただ一心に見入っている。
儺負人は押しつけられ押し返し、やがて楼門をくぐり、ここを先途(せんど)ともみ合うなか、儺追殿(なおいでん)に引き上げられ、納(おさ)まる。
この間約1時間、納まると裸男は潮(しお)の引いたように四散(しさん)し、夕の帳(とばり)と共に再び静寂境(せいじゃくきょう)にかえるのである。
本殿においては、鉄鉾を大床に復し、撤饌(てっせん)の儀・閉扉(へいひ)の儀を奉仕して退下、禰宜は列を離れ、儺追殿に参進拝礼する。そして静かに横たわる儺負人に、その労をねぎらい、無事を祝してすべてが終了するのである。

以上が現在執行されている儺追神事の内容である。
当社の儺追神事と夜儺追神事とは、不離一体の一連の祭儀であり、後者の方がより祭儀の本質に迫る神事と考えられる。
ただ、この儺追神事における裸男の出現は、明治以降に始まったものであろうと推定される。この神事の特色は、尾張国の神々を祭る総社の面目(めんもく)を今に伝える祭儀、という点にある。
通常、追儺(ついな)と称される節分の行事があるが、儺追(なおい)と称するのも興味深い。一陽来復(いちようらいふく)の春を呼ぶ祭儀である事に共通点はある。
神護景雲元年(767)称徳天皇の勅命により、全国の国分寺で吉祥天悔過(きっしょうてんかいご)の法が修せられた。この勅命を拝受した国司が、国分寺へ伝達すると共に、総社である当神社においても勅旨を祈願したのに始まると伝えられている。
勅命には吉祥天(きしょうてん)を祀(まつ)るとあり、その画像も存するが、社家中(しゃかちゅう)では櫛稲田姫(くしいなだひめ)と言い伝えられている。
明治維新前までは、正月13日早朝、御神影(ごしんえい)を拝(はい)した中臈(ちゅうろう)の八社家等が大勢の伴(とも)を連れ、鉄鉾を押し立て、刀鎗(とうそう)を抜き放ち、その年の恵方(えほう)に当たる一里以外の地方へ出向き、通行人や戸外(こがい)に居る男を誰彼なく一人捕らえて儺負人としたのである。
女・子供・乞食(こじき)・僧侶は捕らえなかった。その男を、無理無体(むりむたい)に神社へ引き立てて儺追堂へ納めたのである。
これを「ひるおひ」と称していた。乱暴な祭りであったので、織田信長を始め尾張藩よりも禁制の出た年もあったが、その都度改易されつつも、復活を果たしているのである。長い民衆の信仰に基づいた貴重な祭儀であるといえよう。
尾張藩公許(こうきょ)の祭りであり、明治以後も尾張徳川家の代参(だいさん)が続き、官民一体となって行われてきた。