今年は2月16日〜22日まで休暇を取った。 まつきちにとっては半年前から待ちに待った一週間であった。 去年の裸まつり三連荘を上回るゴージャスなまつり行脚でもありました。
先週の連休(2月11日〜13日)に岩手県水沢市黒石寺蘇民祭に出場したばかりのまつきちは、(特連)休暇中のすべての仕事を片づけて、最初の訪問先である愛知県稲沢市大国霊神社なおい神事(別名、国府宮裸まつり)へと向った。 宇都宮を9:11に出、名古屋は12:08に着。
車中で朝日新聞社フォトサービス(TEL03-5540-7683)へアクセスし、2月12日夕刊に掲載された黒石寺薬師堂構内で執り行われた「蘇民袋争奪戦」のもようの写真の頒布を申込み、(六切りサイズで1枚2,000円、郵便振替で後払い)少しは前夜の寝不足を解消すべく居眠りを決め込み、一路、名古屋へ向う。 頭はもうろう、目はしょぼしょぼ、身体はがくがく、やゝ絶不調の旅立ちでありました。 しかし、やがて高まるであろうテンションの昂揚を予期してか、窓外の喧騒をよそに心の平穏を保つひとときでありました。
とうに厄年を過ぎているというのになぜか裸まつりのシーズン(1月〜3月)ともなると妙に血が騒ぎ、全国の祭りをうろつく習性は何なのか、いまだ解明できぬまゝ家族の理解(あきらめ)にも支えられ、今日も膝栗行脚をつづけます。
今年は異常に事前準備に力を入れてきました。 去年の神男である村松氏を通じての事前交渉、去年もお世話になった国府宮同好会メンバーとの相互の連絡そして岡山市西大寺町観音堂会陽男であるもきち氏との打合せ、最後は初体験なる釜石市鵜住居(うずまい)桑の浜ライマツ祭り世話役であるU氏への取りなし……。
今年のまつきちはたぶんこの最後の祭り(2月21日〜22日)には完全にヒートアップするのではないかという予感がしてなりません。名古屋まではス〜イス〜イだったのですが、なんと大雪が待ち受けていました。ダイヤの乱れが深刻で、やっと新岐阜行き急行が新名古屋駅を発車したのが12:39。ぎりぎり12:55、国府宮駅へ着きました。大国霊神社拝殿前集合時刻である13時にぎりぎり間に合いましたが、誰も来ていません。
それもそのはず、まつきちは楼門ばかり探していました。やがて10分すぎ、境内併設の駐車場(拝殿に向かって左の社務所前)からKonさんが姿を見せ、つづいてN氏、Ken氏もお揃いでした。自称、国府宮(祭り)同好会6名のうち、今回は4名の参加でありました。主役のTurbo氏、多忙な六さんは今回は見送り。
今回は前回と違って、事前準備?をしっかりしてきたので(Kon氏のご指導で「なおい祭り2000年記」の特別サイトを立ち上げ)いやがおうにも膨らむ期待で胸が張り裂けんばかりでありました。
稲沢市のホームページを開いて見ると、なおい神事はすでに旧暦1月2日(2月6日)からはじまっています。去年神男の村松清氏にはすっかりお世話になり、神男選定式の場面こそオフリミットではありましたが、地元Kon氏の情熱と機転に助けられ、今日までの一部始終が手に取るように明らかとなり、いやがおうにもなおい神事とその翌未明に行われる夜なおい神事への興奮が高鳴ります。
この日は折からの大雪(名古屋地方、約40cmの降雪)に見舞われ、降りつづく雪が行く手を遮るのでしょう、今年は西春日井郡春日町が奉納する大鏡餅がなかなか到着しません。
やがて、午後2時を回った頃にやっと楼門と第二鳥居の間になる二十五丁橋越しに奉納隊が現れ、数台の大型・小型トラックが祭り囃子に合わせて参道をオンパレードして近づいてきます。各町奉納の注連飾り餅、野菜、米包み、果物、それに手桶隊の使う手桶等々次から次へと拝殿前に到着しては鉄鉾会の皆様の手でどんどん荷降ろしされ、拝殿奥へと運ばれていくではありませんか。整然と、手際よく、休みなく……その間も絶え間なく参拝客がお賽銭を投げ入れ、拝む姿がつづきます。賽銭箱がないために「どこに投げたらいいの?」なんてお年を召されたご婦人も居て、降り続ける雪をものともせず祈りを捧げる熱心な信者たちで終日賑わっておりました。
まつきちは拝殿近くに陣取って、Turbo氏から借り受けたビデオカメラを(外気との温度差で)曇ったレンズを拭き拭き、回しつづけ、Kon氏、N氏も想い想いにデジカメ、一眼レフを駆使しておられたようでした。やがてトラックのあとを随行してきた艶やか浴衣姿の婦人部の皆さん達による踊りの列が楼門からなおい殿へと行き交います。寒いなかを本当にご苦労さまです。
楼門外では横付けされた大型トラックから神社関係者のお一人の誘導で、四段の大鏡餅(Kon氏によれば、中は空洞だそうです。)が建設クレーンを使って吊り降ろされ、台車に乗せられた大鏡餅はロープを使ってこれまた神社関係者たちの手で引っ張られ、楼門を越えて拝殿前へと運び入れられるのです。なんと大掛かりなことでしょう。
ここで先程から待機のフォークリフトが登場します。その様子をつぶさに静観していたまつきちたちでしたが、もう5時を過ぎても搬入に手こずる大鏡餅を尻目に、なおい殿奥にこもる神男(山田典永(のりえい)氏)に面会するために社務所入口を訪れました。Kon氏に手配していただいた酒二升をもって、入口で「村松さんの紹介」を告げるとさすが話しがすでに通っていて、社務所から拝殿、拝殿からなおい殿へと連なるぎっしりと赤絨毯が敷き詰められた渡り廊下をまつきちたち4名は徘徊させて頂き、明日、大勢の参拝客でごった返すであろう何十畳もあろうかというほどの大広間(黒烏帽子に金色の衣を着けた神男が手にもつ柄杓をポンポンと参拝客の肩に添えて厄祓いするその場所)を横目に、(なおい神事のラストシーンでお馴染みの神男が多くの人々の厄を一身に背負って閉じこもる)お篭もり部屋に通されました。
神男を真ん中に、日置隊長、伊藤副隊長、村松さん、吉田さん、永田さん、玉腰さん、西尾さん等が車座になって取り囲み、まつきちたちは神男に向かい合って鎮座まします。
沈黙を決め込む神男をよそに居並ぶ面々はKon氏が作成、N氏がプリントした分厚い「なおい祭り2000年記・写真集」を取り出して、国府宮同好会の今回の活動に対する説明に耳を傾けていただけました。
ここでKon氏が大胆にも神社関係者か報道関係者あるいは神男の家族でしか上がれないといわれていた楼門上の桟敷席からの撮影を頼んだところ、まだ性懲りもなくと怪訝な顔の村松氏をよそに意外と日置隊長が「それなら宇佐見会長に直談判すれば……」と宇佐見氏御座所に案内され、Kon氏共々礼を尽くしてお願いしたら、「協力しましょう。明日、宮半纏を貸しますから自由に撮影してください。」という信じられないような答えが返ってきました。Kon氏と顔を見合わせ、「ヤッタね。」6時頃、「そろそろ(7時からの庁舎神事が)はじまるので……」という村松氏のタイムアウトの時刻となり、もう一度、神男と各々が握手を交わす光景をN氏のカメラに収めて、なおい殿から拝殿へと向かうと大勢の神社関係者たちが列をなして何やら歓声を上げていました。
引き返して奥の間、渡り廊下を迂回して社務所入口の喫煙所から退出し、境内駐車場に停車中のKon氏車にて途中、晒しと白足袋の購入のために呉服屋かなもりに立ち寄り、Kon氏事務所に着いたのは6時半頃だったでしょうか。事務所のそばのトンカツ屋で夕食をとり(ここはKon氏の奢りでした。)店のご亭主が「昔、神男になったその年に鉄砲打ちに行った帰りに交通事故に遭い、亡くなった人がいる。」などの挿話に「へぇ〜」。
今度はKon氏事務所で内輪の宴会のはじまりはじまり。持ち寄ったつまみを肴に、まつきち差し入れの赤ワイン、N氏差し入れの清酒の良酒良肴に全員、饒舌となり、ソムリエKen氏が手際よく銘々のグラスに92年ものボトルワインの底を傾け、絶妙な手つきで注いでくれました。
9時すぎには遠来のN氏、Ken氏は帰宅の途につき、Kon氏とまつきちはスーパー銭湯へ行くために駐車場へと向かった。がちがちに凍って開かない車のドアをこじ開けて、20分ほどで入浴料400円也のスーパー銭湯に到着します。
一汗流したあと、再びKon氏事務所へ立ち戻り、Kon氏とまつきちのみの差しす差されつほろほろ酔いのまわった午前2時前にはお開きとなり、帰宅するKon氏を見送り、まつきちはKon氏ご提供の寝袋にくるまって一夜を明かすのでした。
昨夜の寝不足を解消するにはちょうどよい寝頃と寝就きと相成りました。夜が明けた。7時起床し、冷え冷えとした部屋で、ひとり、昨日東京駅で買った柳川弁当をぱくついて、やがて8時頃、顔を出されたKon氏としばし歓談かつ早速、昨日のリアルな画像をデジカメから転送され、「なおい祭り2000年記」ホームページの更新に余念がないKon氏のまめさに感心させられながら、9時すぎKen氏、N氏も到着され、4人揃ったところで、N氏は神社社務所へ、のこり3名はやはり村松氏が手配してくれたなおい笹持ち宿の久留宮寿雄氏宅(神社からおよそ3km隔たったところ)を目指して車で出発したのが10時半。
すっぽりと雪で埋まった野原を車窓右手に仰ぎつつ、まもなく第一鳥居が左手に現れる。そして最初の信号を右折して、焼き肉屋の路地を左折すれば目指す久留宮家に辿り着きました。
地元の地理に明るいKon氏ですから10分もかからなかったと思います。
凍結した路面のすべりが気になる最徐行運転ではありましたが、午前11時集合の約束も十分余裕の到着でした。沼田二郎さんに逢わせてほしい旨、来意を告げ、居間に上げてもらうとまだ早いのか4〜5人の方々がいらしていた位でした。
髪の短いボーイッシュな久留宮夫人が甲斐甲斐しく来客のお世話に奮闘されておられた。
ここでKon氏は社務所で待つN氏と合流のため一旦、座を外し、(11時半、社務所を訪ねてくれとの神社関係者からの指示を受けていたので)また戻ってくると言い残して出かけていきました。(次第に席が埋まっていき、全部で20名にはなったでしょうか、)入口近くの長机を挟んでまつきちが向かい合ったのは幸いにも村松氏の勤務先の社長である沼田氏でありました。 かの村松氏に対し神男に立候補するよう勧めたご仁であります。
沼田氏とは初対面とは思えないほど懇ろにいくつもの秘話を拝聴することができました。「昔は大金を使って力士を神男に仕立てていた。」とか、「大昔は旅人を飲ませ食わせしたあげく、よってたかってみんなで殴り殺したこともあった。」との顔面蒼白なる話しだとか、 「いつからか鉄鉾会(神男OB会)と手桶隊の出現により神男を守ることで、忌まわしき慣習にピリオドが打たれたものの、今頃は派手な喧嘩が無くなってつまらなくなった。」などの物騒な逸話が耳を疑う。
(もう歳だからとおっしゃっていた)沼田氏ご自身は鉄鉾会ではない。しかし、二代に亘って神男を務められた久留宮(毅彦氏……S33年、S36年、S44年の三度も神男、寿雄氏……S51年の神男)家を称え、支援を惜しむことなく、寿雄氏が神男の時には田植えから始まり、実った米で大鏡餅を搗き、協賛金を集め、神事を執り仕切る一切の裏方の仕事に徹せられる情熱がいつしかご自分の身辺からも神男を輩出させたいという願望に変わってきたとのことでした。
S56年日置一二氏、S61年小林敬二氏、H8年玉腰辰夫氏、H11年村松 清氏と(沼田氏のもつ鉄鉾会との太いパイプのお陰で)沼田氏周辺から次々に神男が輩出されたのでありました。目を移すと、久留宮家の床の間には明治元年〜久留宮寿雄氏が神男となったS51年までの神男名鑑が掛け軸となって飾られています。
早速、写真をパチリ。先代毅彦氏は三度目のお務めのS44年に鉄砲打ちに行って帰り際に交通事故に遭って不帰の人となった。
「えぇ…… <トンカツ屋のご亭主が話していた人ではないか!>」「さあ、そろそろ一人ずつ風呂に入って順番に締め込めーッ」それまで郷土料理や酒でもてなされ、わいわいがやがや話しの輪があちこちで交わされていた雰囲気とは一転し、ピンと張りつめる瞬間、岡崎から来られた鈴木氏のご発声にて口上がはじまる。
「今年も久留宮家に集う皆さまの……くれぐれもケガのないよう、喧嘩をしないよう…… 神事をわきまえて行動すべし……。」
「午後1時、宿を出発するので裸で出る人は次々に風呂をもらい、褌を締めてもらってください。」
「(赤の)なおい布を要る人、手を挙げて……ハイ、200円。」順番待ちの浴室までの狭い廊下で2組の男子が一反のさらしをひろげ、股間に通し、前垂れを合わせ、ゆっくり回れ、腹を引っ込めろ、巻き終わって余った布を縦褌に通してぐいぐい引っ張り上げて結び目をつくり、布の一端を背中と腹巻きの間に孔雀尺を差して押し上げて、捻ってほどけないよう背中から脇腹に収めます。締め方の手際のよさはさすがです。
若者たちは普段締めたことのない締め込みを締めてもらい居間に戻って奇声を上げあるいはカメラに向ってポーズを取るなど非日常的なテンションの高まりに皆、興奮気味でありました。
ちょっと体格のいい荒鷲……沼田氏の息子さん、とそれを囲む4〜5名の友人。
児童がひとり……村松氏の息子さん、と奥さんと妹さん。
いろんな縁(えにし)でこの宿に集う仲間は元気いっぱい……出発を前にテンションは上がりっぱなし。やがて全員が締め終わった午後1時すぎ、屋外へ出てなおい笹を挟んで2列になって「わっしょい、わっしょい」、長束(なづか)町の氏神である白山社へと裸男たちが掛けていきます。
白山社では拝殿にてお詣りののち、各宿から出てきたなおい笹をさらに何本か束ねて、なおい布で一塊りに覆い(笹の枝葉には裸になれない人たちの祈願がこもる小さななおい布が七夕様のようにくくりつけられている。)一本の太い笹にする作業を終えてから、合流した形の50〜60名の裸男たちで再出発します。「わっしょい、わっしょい」、澄み渡る晴天に昨夜の降雪が実によく映える。途中、幾度か十字路の真ん中でぐるぐる回ったり、笹を天まで届けとばかりに梵天立てをしつつ、第一鳥居から国道を跨ぐ陸橋を越え、第二鳥居、二十五丁橋、第三鳥居そして楼門を経て、全員が笹を捧げ持ち、拝殿正面の奥から迎えの神社関係者たちへと手渡します。
歓声とともに各々が拝礼(賽銭を入れたり)して神妙な一瞬でもあります。これが終わると各々境内に散って神男の出を待ちます。時計がないので時間の経過がわかりません。写真を撮っている間にKen氏はおろか同宿から出た赤ハチマキの衆たちを見失いました。(あとでKen氏の情報によれば、なおい殿の方へ集結していたようでした。)
まつきちはひとりまだ続々と納められていくなおい笹を手にもつ裸群をじっと見守りながら、楼門と第三鳥居の間をさまよっておりました。なぜなら、去年はここで神男を捕らえ、身体に触れることができたからです。目の前には立て掛けられた笹をよじ登っていく勇ましい若者の姿に目を奪われ、一度、二度、三度とチャレンジは続きます。すばらしい光景であります。
Kon氏とはこの位置でカメラを手渡したのち、渦に飛び込む手筈となっていたので、なおい殿近くにいる同宿の人たちを探す術(すべ)を知りません。すべてのなおい笹が拝殿に納められるや、最後尾に手桶衆が「小池正明寺」と書かれた手桶を頭上にかざし、隊列を組んですすんできました。
神男の出現も間近です。
振り向くとKon氏のそばにKen氏を目撃することができました。
手桶衆が清い水を辺りかまわず撒きはじめ、裸群が標的にされるこの一瞬を(防水)カメラにとらえ、Ken氏にも手渡して鉄砲水を浴びるおのが姿を写してもらい、そのカメラを観客側にいるKon氏に預けました。
Kon氏は白の上下の神社半纏を着けているのですぐにわかりました。次の瞬間、楼門と第三鳥居の中間点、楼門向かって左端付近で渦ができました。
盛んに手桶隊が清い水を渦の中心めがけて浴びせかけます。神男が楼門を経てなおい殿へ近づくための道をつけているのだそうです。
渦の中心で、「ここ、ここ」と頭上で指差す人がいます。ここに山田氏がいるのだな、そして神守りの村松氏も、あるいは吉田氏もそしてあと2名、神男を取り巻いて前後左右にまわし姿の神守りがいる筈です。
まつきちはこの渦めざして、一目散に駆け込みました。
ここであの西大寺方式のように潜っていけばもっと効率よく近づけるのですが、まだ修行の足りないまつきちには立ち姿勢なものですから一気にはいきません。
やっとの思いで中心に辿り着きましたが、そこには十数名もの裸男たちが地面に押しつぶされ、腹這いになって蠢いている姿のみで、神男の姿はどこにもありません。
どうなっているのだろうか。
ふと、右手を窺うと、そこにも渦ができていた。そちらには手桶隊の鉄砲水は行っていない。なぜなんだろう。
意味もわからず、まつきちは左の渦から右の渦へ……しかし、なかなか抜け出せません。
そうこう、楼門寄りでさらに3つ目の渦ができました。そちらには清い水が容赦なく掛けられています。
果たして神男はどちらにいるのでしょう。「山田……山田……頑張れよ」どこからともなく神男を叱咤激励する声がします。
去年の状況とはまったく違った展開についに糸の切れた凧状態となり、どこの渦でも構わないから手当たり次第に中心をめがけて突進しようとするのですが、裸群に囲まれて身動きすらできません。
まだ、諦めないぞ……楼門内が勝負だ。参道から狭くなった楼門が一番危険だそうですが、これを越えないと境内はおろかなおい殿への道が閉ざされます。必死の思いで神男より先?に楼門をくぐり、やがて押し寄せる渦を境内の中から捕らえようと満を持しておりましたが、いままで横殴りの鉄砲水もいつしか頭上からの水掛けとなり、密集する群団に足を掬われそうになる。それでも平常心を失わないよう、じっと我慢でありました。
渦は3〜4ヶ所でできています。
なぜなんだろう。去年とまったく違う光景です。スポーツで言えば、フェイントがうまいというのか、陽動作戦が功を奏しているのか、はたまたダミーの神男がいっぱいいるのか、まったく状況がつかめません。どこかに山田氏も村松氏も……いるのでしょうが、こうなったら彼らの無事を祈るだけです。この間中、拝殿では神官がひたすら祈りを唱えて神男の無事を祈りつづける姿をKon氏は(写真で)捉えておられた。
ラストチャンスはなおい殿入口……渦を先回りして、身体をよじりながら待ち伏せする格好で神男を触りにいく作戦変更です。
ところがここでハプニング……裸男に押し倒されて、足元には5〜6名の男たちが腹這いにうずくまり、さらに上からものしかかる。まつきちは運悪く、上下の裸に挟みつけられ、左足がキーロック状態になり、凄い圧力がかかります。
この時、覚悟をしました。……左足大腿部骨折の恐怖。しかし、骨は縦の圧力にはもろいが、横からの圧力には強い筈なので、激痛をこらえながらも無理をせずじっと耐え抜くのみでした。神様、お助けを!……「起こせ。起こせ。神男はここにいないぞ。もう、神男はなおい殿に入ったぞ。」の声に助けられ、次第にわが身が軽くなっていきます。
終わってしまった。……万事休した。神男は無事になおい殿に担ぎこまれ、倒れた男たちの下敷きからまつきちが解放されたときはもう祭りはすべて終わっていました。
なおい殿の奥では神男が担ぎ込まれて、お籠もり部屋へ入る姿をKon氏、N氏がばっちりと映像に捉えている頃合いです。
通常だとここで歓声が上がり、神男の再登場して一礼するのが常なのですが、なぜか歓声(カーテンコール)も再登場(アンコール)もありません。
ましてやスタンディングオーべイションもないのです。裸男たちは三々五々余韻を楽しむかのようにじっとその場でたじろぐ者、家路へ急ぐ者、そして、まつきちは宿に向かってひとりもと来た道を戻っていきました。第一鳥居から右折、丸徳産業前を通って最初の信号を右折までは覚えていたのですが、ここからちょっと道に迷ってしまい、先行く裸男のあとをつけたのが間違いで、白山社まで戻ったところで路を尋ねました。
「久留宮さん宅はどこですか?」「久留宮?どこの?」「あっそう、寿雄さんとこね。それならそこを右折して最初の四つ辻を左折、200mほど直進したとこよ。」と親切なご婦人の道案内で宿に辿り着いたのは午後6時すぎでした。玄関先で汚れた白足袋を脱ぎ、そのまゝ浴室の脱衣場で褌を解き、すでに湯舟には先客で満員だったので、ひとり出るまで待っていました。
シャワーで汚れた身体と足元を流して湯舟に横たえた時の解放感は堪りません。
じーんと熱い湯温が芯から冷えた身体に伝わって、最高のご馳走でありました。入浴後、久留宮家の直会(なおらい)に参加させていただきました。
(鉄鉾会の印しである白半纏姿の)ご主人の寿雄氏、同じく鉄鉾会の小林敬二氏がいます。 Ken氏もすでに着席されていました。
若い人たちの熱気ムンムンの中、例の鈴木氏の司会で会がはじまり、ビールで乾杯をしてひとしきり、後刻談に花を咲かせておりました。
ここで村松夫人や妹さんにも挨拶を交わしました。「いつも電話でお騒がせしております。」「いいえ、こちらこそ失礼しています。」
そしてお開きの手締めに合わせたあと、寿雄氏に近づき、お礼旁々、がっちりと握手を交わす、なんとその握力の強いこと強いこと、鍛えているな、この人たちは……。「(なおい殿に籠もる)神男に逢いに行こう。」という沼田氏の声に誘われて、「来年(の神男)は自分の番かな」と言う村松さんの後輩の人(この方は今年の神男選定式に初参加、残念ながら空くじでしたが、来年に捲土重来を期されています。)の車にKen氏とまつきちは便乗させてもらい、もうすっかり閑散とした境内からなおい殿入口を通って、奥のお籠もり部屋を訪れました。
雪が激しく降ってきました。お籠もり部屋に敷かれた蒲団に横たえる山田氏のいかにも疲れ果てた様子に傍らの村松氏が寄り添い、「神男は握手する力もないので(蒲団から出した)手に触れるだけにして」という言葉通りにそっと「無事、大役果たされましたね。ご苦労さまでした。」とねぎらうのが精一杯の呈でありました。
山田氏の「まさに自分との戦い、自分を見つめ直したい。」という数日前に掲載された中日新聞のコラムが頭をよぎり、「(裸男たちの)20%は突撃する者、80%は尻込みする者、その気になれば渦の中へは簡単に入れる。」「神男を捕まえるためには神守りのまわしを掴むこと。神守りが神男を守るためにはまず自らを守ることができないと務まらない。」とか車中でおっしゃっていた来年も神男候補となるであろう後輩君の解説にうなずきながら、目もうつろな神男の艱難辛苦を想うとき、この祭りが本当に大変な祭りであることの感動がまさしく心を揺さぶるのでありました。
いつしか夜の帳もとっぷりと暮れてもなお絶え間なく次々に訪れる関係者の列に押し出され、(神事中はまったく触れることができなかったので、)いつまでも神男に名残りを惜しみつつ、Ken氏とまつきちはなおい殿をあとにして、Kon氏事務所に戻ったのは午後7時頃。
生憎、Kon氏はまだ戻っていなかった。待ちくたびれてKen氏は先に帰られました。ようやくKon氏、N氏が戻られたのが、8時すぎ。どうやら宿に迎えに行かれて、行き違いになったようでした。
Ken氏からのよろしくを伝え、残った3名は酒盛りして暫し歓談。9時にはN氏が帰られ、10時前にはKon氏も帰宅。
昨夜と同じく、まつきちはひとり寝袋にくるまり、午前3時からの「夜なおい神事」を見物すべく(午前2時にはKon氏が迎えにくるという約束であったので、)寝過ごさないかと心配をしながら少しの間の仮眠を決め込むこととなりました。
言わぬ事ではありません。目が醒めると午前2時半でした。Kon氏の姿はまだ見えません。 服を着込んで45分まで待ちましたが、これ以上は待てない。急いで事務所を飛び出して 神社へ向います。雪は容赦なく降り続けていました。ともに参道を急ぐご婦人たちが行き交います。拝殿前では煌煌と焚き火の火が燃され、午後3時きっかりに神男とその両肩を支える警固(村松氏、吉田氏)を中心に鉄鉾会の皆様が火を囲み、神事の開始を待っておられた。
やがて神官たちの先導で、神社東端に位置する庁舎(ちょうや)へと移動する。庁舎を囲んで大勢の人たちが見守る中、神男は庁舎東の敷居に腰を掛け、じっとうつむいています。 目の前には大松明の火で焚き火が燃され、赤々と神男の顔を照らしていました。
静々と、厳粛に宮司の祝詞が奉じられ、雅楽の調べが奏でられる中、宮司そして宇佐美会長が玉串を奉じて拝礼します。
なぜか神事が始まる頃には雪が止み、月が顔を出すさまには神仏の存在を信じざるを得ない不思議な光景でありました。
つづいて禰宜が神男に真っ黒な土餅を背負わせ、その餅に人形を立て、その人形の先に火が点けられる。
なお、これに先立ち禰宜たちが一寸ばかりの桃と柳の小枝を燃した炭を白紙に包んだ礫(つぶて)を参拝客に配り終えていました。まつきちも2つばかりこれを手にして、次の瞬間を待ちました。大鳴鈴を打ち振りながら禰宜が庁舎を三回廻り、神男と二人の警固が肩を組んでさらに庁舎を三回廻る。その間、居合わせた参拝客が一斉に神男めがけて礫を投げつける。 一目散に神男たちは闇の中へと走り去っていきました。
散り撒かれた礫は禰宜の手で拾い集められ、庁舎南山にてこれを焼く。その灰を集めて白紙に包み、宮司の手で神に供えられる。それを見届けるかのようにまた雪が降ってきました。誠に不思議な光景でありました。 午前4時にはすべてが終了し、3時半頃、顔を出されたKon氏の車で事務所へ戻りました。
興奮の余り、事務所では一睡もすることなく、Kon氏のホームページの更新に目を奪われて、やがて朝を迎えます。
午前8時にはじまる大鏡餅切りに参拝すべく、朝食抜きで、国府宮駅前スタンドでturbo氏ご注文の新聞5紙を買い求め、近くの写真屋で撮り終えたフィルムの現像を頼み、再びKon氏の車で拝殿前に着いたのが午前9時でした。
ちょっとコーヒーでもと誘うKon氏とともに喫茶店で軽く朝食をとり、再び拝殿前に戻ると神社関係者の手によって拝殿に供えられた大鏡餅が上から1枚ずつ順番に縦横に切り刻まれていく様子を興味深く見入っておりました。永田氏の顔も見ることができました。すでに境内は切り餅を買い求める参拝客が列をなして待っていました。一個200円、一人10個までという切り餅を手に入れるには2時間もの時間を要してしまいました。
まつきちはこれと10本のなおい布とを神社社務所で購入し、(西大寺の)もきち氏への土産と決め込みました。未明とは打って変わり、太陽がまばゆい暖かな日差しが気持ちよく、うとうとしながらも 早、次の西大寺会陽へと心が移っていくのでありました。
Kon氏にプリントした数枚の写真を進呈して、3日間に亘る投宿の便宜に対するお礼を述べて、
国府宮駅13:37発、名鉄特急、新名古屋駅13:49着。
名古屋駅14:03発ひかり119号博多行き、岡山駅16:00着。
岡山駅16:28発、赤穂線、西大寺駅16:44着。乗り換えの岡山駅ホームで待つ間、もきち氏から携帯電話に着メロが鳴る。
(国府宮体験記 完)