祭りの歴史
この神事は、朝廷が奈良から平安に移ろうとする頃、全国の国分寺に出された吉祥天悔過の法の勅命に
由来する(西暦767年)。国司は国分寺に勅命を伝えると共に、神社において厄除け祈願を執り行つた。
正月11日、神官が餅をつく。これを土餅と呼ぶ。12日、政所で一の宮真清田神社、二の宮大県神社
三の宮熱田神社、そして総社である国府宮の4社を祭る祈とうが執り行われる。
13早朝、お札、鈴、小刀が榊(さかき)に結ばれる。これを鉄鉾(てっしょう)と呼ぶ。
社人寄進人は、田畑を荒らさぬ誓いの杯の後、この鉄鉾を振りかざし、その年の恵方に儺負人採りに出発
する。抜刀、あるいは両手を広げ数十人の足音雷のごとし。神社周囲1里(4km)以内は神垣と呼び、そ
の外で難負人を捕らえる。武士、女、子供、乞食、僧侶以外は区別がない。一人を捕らえると儺追い風が
吹くと言い伝えられている。下図は尾張国府祭記(西尾市岩瀬文庫)。
山門に待つ神官、鉄鉾(てっしょう)を持つ長太夫、そして社人寄進人の集団の先頭に儺負人。
儺負人 土餅送り先
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貞亨 4年 (1687) 春日井郡堀江村。百姓某 中島郡法立村
元禄 元年 丹羽郡高田村 百姓 伊之助 18才 春日井郡下之郷村
2年 春日井郡平田村 百姓 七左エ門 23才 春日井郡銀治ヶ一色村
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このような勇壮な神事、毎年注意書きが楼門に張り出されるが、騒動に発展することもある。
織田信長は3年停止を命じたとか、江戸時代寛保3年(1743)尾張藩は祭りの改易を命じる。
1744年から1867年(明治維新)の間、儺負人 、土餅送り先の記録は途絶える。
「けんか祭り」として有名なこの行事も、本行は次の夜儺追神事である。この事を知る人は少ない。
夜中2時ころ、土餅と人形を背負わされ儺負人は、神垣の外に追い払われる。土餅と人形は打ち捨
てられ、見かけた人により土に埋められる。儺追神事の終了である。
現在は、儺負人は志願者から選ばれ、 土餅は神社内の某所に埋められる。
西尾市岩瀬文庫
尾張国府祭記
(函番号140−168)
1999/3/21 A.Kon
*掲載画像について*
上記はだか祭りの歴史は稲沢市史(昭和43年発刊)を参考に記述いたしました。画像は稲沢市史にも掲載され
ておりますが、西尾市岩瀬文庫を現在管理運営しています西尾市教育委員会の御好意により本ペ−ジに掲載許
可を頂き、掲載いたしました。つきましては、本ペ−ジからの転載はご遠慮下さい。
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