日本三代実録巻十一 貞観七年(865)十二月二十七日 「尾張国言ス。昔広野河ノ流レ美濃国ニ向フ。斯ノ時ニ当リ、 百姓ニ害無シ。而(シカシ)テ頃年(ケイネン)河口よう塞 (ヨウサ)シ、惣(スベ)テ此ノ国ニ落ツ。雨水ニ遭ウ毎ニ 動(ヤヤ)モスレバ巨害ヲ被ル。望ミ請ウラクハ、河口ヲ 掘開シ旧流ニ趣カシメン。 (太政官処分スラク)請ニ依レ」 |
神護景雲元年(767)から100年が経過した。朝廷の実権者、太政大臣藤原良房の 家令であった菅野朝臣弟門が尾張介として遙任に就いた。解文が提出されたのは、 その時であった。工事は年が明けてから開始されたのだろう。この年の4月(新暦5月) 尾張、阿波での風ロウ(たけのこ台風)の被害が記載されている。正税の稲六万束の 無利子貸し付けが裁可されている。 |
貞観八年(866)七月九日 「是ヨリ先、尾張国言ス。太政官ノ処分ヲ奉ワリ、広野河口ヲ掘開 シ、旧流ニ趣カシメントス。而ルニ美濃国各務郡ノ大領各務吉雄、 厚見郡大領各務吉宗等、兵卒歩騎七百余人ヲ率イテ河口ヲ襲い来リ、 郡司ヲ殴リ傷ツケ、役夫を射殺シ、河水ニ血ヲ添エ、野草ヲ膏 (アブラ)デ濡ラス。成功将ニ畢トスルニ此ノ相妨ゲ有り。 是ニ至リ太政官ハ美濃ノ国司ニ符ヲ下シテ曰ク。 河流ノ利害、両国ノ争論ハ彼此相持シテ歴代施ス無シ。是ニ於テ重 ネテ招使ヲ遣シ、両国司与(ト)相供ニ勘定シ、更ニ復(マタ)朝 議シ、其ノ得失ヲ審(ツマビラカ)ニシ、両国ニ下知シテ其レヲ 掘開セシム。功役己(スデ)ニ発シ、作事稍(ヨウヤク)成ルニ オヨビ,多ク兵杖ヲ興シ人ヲ傷ツケ血ヲ流スハ、郡司之無情云雖モ、 ソモソモ亦(マタ)国吏ノ不弁ナリ。静而(オダヤカニ)之ヲ言モ 理(コトワリ)ャ合然(アニシカルベケンヤ)。宜シク早ニ掘開 令ベシ。又擅(ホシイママ)ニ兵衆ヲ興スハ法ノ禁ル是重ク而テ、 数七百ヲ過キ害ハ殺傷ニ及ブ。須(スベカラ)ク乱主吉雄等ヲ禁 固シ両国相共ニ死傷人数ヲ録シ、実ニ依リ言上 セヨ」 |
各務、厚見の両郡には、当時13郷があり1号50戸とすれば六百数十戸。 兵卒歩騎七百余人は1戸一人となり、全郷総出の対抗であったと思われる。 尾張国も葉栗、中嶋、海部から総出の工事であった。この事件は「広野河事件」 あるいは国境を巡る「各務原合戦」と呼ばれる。 |
日本三代実録巻十三 貞観八年(866)七月二十日 「尾張国司ニ下知ス。暫ク河口ヲ掘開スルノ事之ヲ停ム焉」 |
貞観八年(866)七月二十六日 「是ヨリ先、尾張国言ス。美濃国各務郡大領各務吉雄ト、厚見郡大領 各務吉宗ハ、乱ヲ作シテ之後未幾日モ経ザルニ、人夫数百人ヲ率イ、 倉ヲ砕壊シ河水ヲ流失サセ、沙石ヲ運積シテ河口ヲ埋塞シ、吉雄等ハ 百余騎ヲ引イテ河辺ヲ往キ還リス。随近ノ兵ヲ発シテ彼ノ逆乱之由 ヲ糺サント欲スルモ、恐ルハ闘争河ヲ掘ルノ論自リ起リ、遂ニハ両国 刃ヲ接スル争(アラソイ)争ニ至ランヲ。因ツテ掘開ヲ停メ、伏シテ 裁下ヲ待ツ。中嶋郡ノ人、磯部逆麻呂等三人、身ハ河ヲ掘ルノ役ニ 従イ、同ジク吉雄ノ射殺スル所労ト為ル。是ノ日太政官ハ美濃国司ニ 下知シ、吉雄等之犯過ヲ推糺セシム焉」 |
ここで、この事件の記録は途切れる。擅興兵律は20人以上の兵を動かした
場合、百回杖で打たれる。50人以上の場合は懲役1年。50人を超えるごとに
罪は1等づつます。3人を射殺したのであるから、闘訴律によれば斬刑相当
である。処分は公式文書日本三代実録に記載されるのが通常であ
るのだが。応天門事件(866)勃発による混乱で記載もれなのだろうか。 担当国司、美濃国守源朝臣頴は信濃守に転出する。尾張国守についての記録 は認められない。この事件により国境が変わることはなかった。木曽川の主流は 北の境川であったろう。しかし、尾張の黒田川、浅井川、三宅川と網の目のように 広がり洪水の都度尾張国が被害を受け続けたことは確かなようである。一説には 国府は一時移したといわれる。 この事件の位置については前渡当たりの境川分流点とするのが通説である。 この通説が正しいとしても、同じように掘開した100年前の神護景雲3年の現場 はどこなのだろう。調べてみたくなる訳である。 |