「湯立て」とは、神前で湯を沸かし、巫女・神職などがその熱湯に笹の葉を浸して自分の身や参詣人にふりかけるもの。無病息災を祈る
祓いの行事。尾張一円では、祭礼の主要神事である場合が多い。ここも
そうなのだが、近年では玉ぐし奉納などに簡略されていくようだ。
「テーホヘ テホヘ」と夜を徹して繰り広げられる愛知県奥三河の「花祭り」は、
鎌倉時代の頃、修験者によって伝えられたといわれる。
花宿の清めから始まり、神迎え、湯立て、宮人の舞、
青年の舞、幼児の舞、山見鬼、榊鬼の舞、湯囃し、神返しまで
、ほぼ一昼夜をかけて行われる。舞庭に置かれた釜の湯
は、祭りの重要な要素だ。
明治維新まで伊勢外宮で行なっていた神楽も湯立神楽と
呼ばれ、「湯立て」が中心。尾張一円の湯立て神事のルーツは、ここまで
遡るのだろうか。神楽とは、具体的な所作を舞踊化したものだろう。
火と釜と煮えたぎる「ゆ」。古代製鉄の灼熱の「たたら」を「ゆ」と言った。
一つの説として、「湯立て」は「たたら」の祭りと解釈できる。
”多度山の石”、”美和町金岩の砂”、”亀ケ池の葭”。この三つの謎
を持つ須成祭の筋立ての中に「湯立て」がしっかり組込まれている。この事に、
大層興味が沸く。こうして祭り見学に足を運ぶ理由はここにある。
平安時代の神社名鑑に 延喜式神名帳がある。尾張国愛智郡に「伊副神社」が
記載されているのだが、所在不明とされる。愛智郡は熱田神宮を中心とした
地域。僕は愛知県海部郡七宝町伊福にある伊福部神社が尾張国愛智郡の伊副神社
であると見る。確かに、尾張国海部郡に当たる地域にあり、近くに尾張国海部郡の
藤島神社がある。愛智郡の伊副神社とは成り得ない。
そういってしまえば終りなのだが。
ごく素直に猿投神社に伝わる尾張国古図を眺めて見よう。海人族の熱田氏を祭る熱田の森から舟で往来した時代ならば、
七宝町伊福を含めた須成は熱田本拠の飛び地であったとしても、何ら不思議なことではない。いかがなものだろう。江戸時代や、明治の初め
に地域のブランドを求めて式内社比定ブームがあった。少なくとも、このブーム
において該当する古社がなかったのである。一考の余地は大ありとおもうのだが。
町村合併で人為的に設けられた行政界が取り払われる。この機会に、地元の歴史
を見詰め直されることをお勧めする。式内社とは地域ブランドとしては、超一流
品なのだから。
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