須成天王祭


尾張名所図絵 付録 海東郡、海西郡 富吉天王宵祭 須成橋古覧

須成天王祭富吉建速社の古式、牛頭天王に由来する祭礼と言える。

この祭礼は「御葭(みよし)の神事」と「車楽(だんじり)舟の川祭」からなる。

「車楽舟の川祭」 本来は給人(藩士知行人)でおこなわれたが 村に「若い衆」という制度(16〜23歳)ができてからは 村から米一石の給与を受け「若い衆」の行事となった。 須成村を「上千石」、「下千石」に二分し一年交替で 上番と下番を受け持った。 なを、「上千石」は市場割、門屋敷割、北屋敷割、南屋敷割。 「下千石」は下之割、六白割をいう。

祭り係り

祭り総代 2人 宿大将 1人 桜花 1人 (会計責任者) 桜受け 1人 (会計責任者) 笛 2人 車大将 2人(祭車責任者) ほうずき 2人 多度詣り 4人 枡番 2人 (稚児見舞責任者) 宿見舞い 以上役員以外の若い衆 稚児 稚児 2人 大鼓 2人 太鼓 1人 「御葭の神事」 「上千石」と「下千石」から4名ずつ選ばれる。 村から酒八升の給与を受ける。祭舟には関係しない。

以下に蟹江町史記載の古式を記す。

旧暦6月1日 「砂取」 「稚児定め」 午前3時。若い衆は蟹江川の上流金岩(海部郡美和町金岩)へ 砂を取に出掛ける。持参した砂は神社の境内に敷く。 午後 祭番の若い衆は宿、稚児、笛吹を選定する。 夜半 若い衆の年少4人は下六の提灯をもって稚児の依頼に出掛ける。 戸口先の土間にしゃがみ、三つ指で両手をつき口上を述べる。 「今年は祭番があたりまして役者衆をお願にまいりました。 どうか宜しくお願いいたします」 主人返答 「一応相談いたしまして」 若い衆は引き上げる。 つぎに、年量の上の者4人で同じ作法で訪問をする。 こうして順に年上の者に入れ替わり訪問を繰りかえし、 朝までに承諾を取り付ける。 旧暦6月4日 「おつきあい」 若い衆は全員稚児の家を廻る。年長者は羽織を着る。 主人は若い衆を座敷に通し、茶菓を振る舞う。 若い衆の挨拶 「当年は祭番があたりまして役者衆をお願いいたしまして、 ありがとうございました。役の儀は稚児でございますから 宜しくお願い申し上げます。 明日は宿入りでございますので、宿元は伊藤様方でございますから、 正十二時までにお出下さいますようお願いいたします。 何分若い者のことでございますので、手落勝で失礼ばかりと存じますが、 今後お心安くおつきあいのほどお願い申し上げます。」 旧暦6月5日 「宿入り」 宿大将.稚児(親同伴).笛吹を御馳走のため全員で準備。 料理品目 お平 なす または とうがんの煮物 皿付 頭の付いた魚(鰯の丸干し) 猪口 瓜の酢の物 ご飯、味噌汁とともにお酒を振る舞う 午後2時頃 祭囃子を1曲奏上。 稚児には若い衆が手を取って教える。 この日から毎昼休みと夜の祭囃子の練習が始まる。 若い衆は桜花.梅花,提灯の準備をする。 旧暦6月8日 「多度神社初詣」 多度神社初詣り役の4名は徒歩にて多度神社に参拝し、 祭礼日の天気晴朗の祈願をおこなう。 御札を受け、祭提灯に入れる小石を拾って帰る。 この小石は必ず多度の石に限られる。 御札を神棚に祀り、この夜から山乗、車大将は 毎夜蟹江川にて水垢離をして多度神社と天王神社に礼拝をする。 水垢離は、お宿から清兵衛こいど(船着場)より 川西の江村兼吉東に渡り、堤防を寺西進之衛門裏まで行き、 西方多度山の方を向かいお詣りする。 進之衛こいどより天王橋の西に泳ぎ、神社に参拝。 堤防を南下、深田こいどより川西の飯田末松のこいどに上がる。 江村兼吉の所より川東の清兵衛こいど、そして宿へ戻る。 神棚にお参りして終わる。 この日より宿には竹を立て提灯を灯し多度神社に献じる。 提灯は毎夜数を増やす。 8日 2個 9日 3個 10日 5個 11日 6個 12日 7個 13日 9個 14日 10個 15日 12個 提灯の数を増やすのは車大将の役目である。 旧暦6月10日 「宿よび」 宿元が 若い衆全員と稚児(親同伴)、笛吹、総勢30人程に御馳走する。 本善、および八寸の皿盛り、菓子の1尺の鯛を用意。 たいへんな費用のため頭分の家にやってもらうことになっている。 旧暦6月12日 「御葭の準備」 御葭(みよし)刈連中の八名は船を清め、ちまき餅を造り明日の準備をする。 旧暦6月13日 「葭刈」 御葭刈連中は1週間前より自炊し身を清め、当日は白襦袢で出掛ける。 船にちまき餅と七五三笹を積み、太鼓を叩き亀ケ池に向かう。 亀ケ池(十四山村)に到着すると杁先に笹竹を立てる。 村方では白と黄色の”おこわ”を蒸し「鳥の子」を作る。 (鳥の子の形に握り、黒豆二個で目をつける) 「鳥の子」と弁当を持参で神官、役が屋形船で葭刈場に向かう。 亀ケ池と神戸の村方に「鳥の子」九個入り重箱と 神酒1升を持って葭刈の挨拶に出向く。 神事をして船一杯の葭を刈り取る。食事をし帰る。 途中両岸の見物客に「鳥の子」を撒く。 「多度神社中詣」 午前2時、ほおずき係り2名は白襦袢、腰に鈴 そして裸足で多度神社の御札をもらいに行く。 途中休むと願事が消えるので、休む暇なく帰る。 「大注連起こし」 祭り大将は宿の門の両脇に青笹竹を建て 大注連(おおしめなわ)を張る。 これより、女人出入り禁止。 宿当家、親類に出生、死事があると「火がかかる」 として縁者も出入りを差し控えなければならない。 旧暦6月15日 「高砂飾り」「花うけ」 車大将は床の間に「高砂飾り」を飾りこの日より 朝昼晩とご馳走、お神酒を供える。お下がりは車大将が頂く。 ご馳走をお供えした時以外は「高砂飾り」は白紙で面を覆う。 「高砂飾り」の体に触れるときは口に白紙をあてて行う。 稚児は祭り囃子の稽古上げをする。 山乗は桜、梅に花を付ける。 桜は柳の木に薄紙を円形に切り四つ折り、先を赤く染め 紙縒り(こより)で枝に付ける。 梅は榎の木に紅白よもぎの三色を花形に切り抜いたものを付ける。 今日より稚児、お供、笛吹き、若い衆など船に乗る者は水垢離れをする。 写真集「蟹江町100年の歩み」より 旧暦6月16日 「船からみ」「葭揃え」 「船からみ」 午後3時より村の年番、稚児親、山乗により船二そう並べ車楽を組立。 真竹に提灯2個灯し、車大将は船で寝る。 「葭揃え」 葭刈連中はは直径一尺程の束を4束作る。 御神体の台座となる。祭りの間、祭文殿にお供えしておく。 旧暦6月17日 「天王詣り」「宵祭」 早朝より車楽の飾り付け。午後1時、水垢離れをする。 午後3時、「天王詣り」(稚児行列)

行列順序

祭り総代 一文字笠、裃袴 宿大将 一文字笠、裃袴 稚児 2人 露払い 方尺の棒を持ち 2人 親役 一文字笠、裃袴 稚児 緋縮緬の着物、長袖には錦糸の絵 ただし水に関係する絵は禁止されている。 傘さし 浴衣着用 団扇あぶち 稚児の座布団を担ぎ 大団扇であおぐ。浴衣着用。 履き物は紙緒の草履 大鼓 2人 親役 紋付き羽織袴 稚児 肩に担がれる 傘さし 浴衣着用 団扇あぶち 稚児の座布団を担ぎ 大団扇であおぐ。 太鼓 1人 御供は 大鼓に同じ。 太鼓はおおきいから歩く 1人 御供は 大鼓 に同じ。 笛吹き 2人 裃袴着用 車大将 2人 裃袴着用 山乗 8人 紋付き羽織袴 行列順路 富吉建速社(牛頭天王)に参拝。 祭り総代、宿大将。親役は祭文殿でお神酒を頂く。 隣の竜照寺に参拝。 中道より飾橋、竹屋の坂を東に下り善敬寺参拝。 東街道を松秀寺へ向かう。お参りを済ませ、散会。 お祝いをもらった家にお礼回りをする。 「宵祭」 午後8時、宿に集合、宿囃子を1曲奏し船に乗り込む。 囃子1曲奏し出発。 提灯を差しながら進み、清兵衛こいど(船着場)までに 365個の提灯を差し終わる。ここには、宿見舞いが下六 の提灯を持って待っている。山乗りに「おめでとう」と挨拶。 山乗りは「ご苦労様」と応礼。 宿見舞いは宿に報告に行く。 「祭りが順序よく渡りはじめまして、おめでとうございます」 提灯を差し終えた山乗りは祝宴、餅投げをする。 両岸は参拝者で立錐の余地がない程になる。 若い者は娘の気を引くために尻を抓ることが流行る。 別名、”つねり祭り”と呼ばれた。 川面は見物の船で祭船の行く手を塞ぐほどになる。 天王橋に着き、そのまま後にもどり深田のこいどで解散。 山乗はそのまま郷倉西まで戻り提灯を片づけ、朝祭りに模様替え。 車大将は身を清め「高砂」を後ろ向きにおぶって山の上に安置する。 旧暦6月18日 「朝祭」 午前10時、宿に集合、船に乗り込み囃子1曲奏し出発。 祭り総代、宿大将、稚児は西側の堤防に上陸。 車大将の一人はこの時上陸、一人は残る。 神社参拝、祭り囃子を奉納。囃子が終わるころ 残った「残り裃」が山乗に向かい 「山の衆、霧を吹いて下さい」と合図する。 羽織袴の山乗は梅と桜の花に霧を吹く、そして 花を折って堤防に投げる。氏子はこれを持ち帰りお守りとする。 特に、雷避けになるといわれる。 天王囃子が終わると船は下る。深田のこいどで解散。 午後は村中の若い衆が馬を引いて神社に参拝。 三宮、柳瀬の市神社と参拝し村中が賑わう。 旧暦6月19日 「御葭流し」、「山おろし」 「御葭流し」 御葭刈連中は葭束を2本並べ十字に組む。 その中央に御神体を立てる。御祈祷の後、川に流す。 川岸に各村の区域を定め、流れ着いた村が祭る。 「山おろし」 午後より村の年番、稚児親、山乗により車楽船の解体を行う。 旧暦6月25日 「棚上げ」 丸太を4本立て高い棚を作る。その上に御葭を祀る。 周りに笹竹を沢山立てる。 馬の背に鈴を付け、長い手綱に子供達がとまり ワッショイ、ワッショイと引き回す。 旧暦7月24日 「中湯立て」 湯を献じ、中間の御祈祷をする。 旧暦9月9日 「おみだれ」 75日間、外で疫病をお守り下さったが、もとの宮にお帰りになる。 棚から御葭を下ろし、地中に埋める。100日に及ぶ神事が終わる。 以上が蟹江町史に掲載された氏子総代による明治初期の祭りの様子である。 昭和11年、若い衆制度が廃止され、青年21歳以下と年中長者10名の 祭り係りによることになった。公民館が出来、これを祭り宿とした。 5日の馳走振舞い、10日、17日の馳走振舞いも廃止された。 8、13日の多度神社参詣も中止された。 この祭りの古式により江戸時代の尾張地方の農村の伝統を知ることができる。 祭りを通じ、若い者への礼儀作法の伝承をし、また年に1度の青年の出会い の場を演出する。そこから村落共同体を経営する知恵を読み取ることができる。 農業という生産基盤を共有し、水害を共に戦った共同体は、今となっては失わ れた風景であるが、そこに”祭り”を通して築き上げられた知恵、文化を私達は 決して忘れてはいけないものであると思う。 2000.8.8 by Kon