ITて何?僕の場合2001.1.8


 

パソコン
 

 僕がコンピュ−タ−と言えるものと付き合いだしたのは、1970年 のことでした。大学四年になると、卒業研究のために講座を選ぶ。僕の選んだ講座の 助教授は電算機室のボスをしていた。当時校舎の一室に年中25度にエアコンがセット された部屋があり、電算機が置いてあった。一般学生の利用が終わると僕の研究室の 学生は朝まで自由に使わせてもらえた。シュラフ持参でこの部屋で何度もコンピュ−タと 一夜を共にした。コンピュ−タ−はプログラムを与えないと何もしてくれない。 プログラムは自分で組むのだが、誤りもある。何度も繰り返し正解に近づく。 ある時、輪転機のようなプリンタ−が真っ白な用紙の片隅にアルファベット1文字 ずつ打って膨大な用紙を出力した。もう時効だから告白するが、国費の無駄使いに恐縮した。当時はモニタ−なぞない時代であった。
 僕が会社務めをしだしたころ、民間会社でもコンピュ−タ−を使うようになり、 NTTの大型計算機の端末が設置された。ちょっとプログラムを動かしたが 10万円程の請求書が来た。それを見て、使うのをやめた。その頃出だしたプログラム電卓で仕事はした。
 僕が最初に使ったパソコンはシャ−プのMZ86。プリンタ−はないがテレビモニタ− があり快適だった。手持ちのプログラムを打ち込み楽しんだ。これは家庭用 のカセットテ−プにプログラムが保存できる。すばらしいと思った。まさに、 パ−ソナルコンピュ−タ−。いつだったか、会社が処分すると言う。僕は譲り受け 大切に保管している。
 1981年、IBMがPersonalComputerを発売した。 CPUはIntelの8088、OSはマイクロソフトのPC−DOS。1984年 CPU286、回路周りはISAバスでAT仕様を発売。
IBMはこのPCの情報を公開し、DEL、ASTといった互換機市場が形成された。 IBMはPCの主導権を奪回すべくディスプレ−ボ−ドVGAの次期XGA仕様に動いたが、市場はAT互換を固守した。 ATア−キテクチャ−の互換機はアジアの生産市場を巻き込み、価格競争で魅力的な AT市場を拡大させていった。そして、コンピュ−タ−という極めて知的な商品は、 合理性を愛する無数の消費者により支持され発展した。パソコンは、そもそも 個人としての消費者が形成した20世紀を代表する商品だと思う。

 

国民機とPCAT機
 

 大型電算機もそうなんだが、日本のパソコンは世界のパソコン市場から 守られていた。通産省の保護政策もあろうが、この防波堤の本質は漢字の問題である。 パソコンの能力が今程でない時代、漢字処理をどうするかが一つの決め手となる。 ワ−プロといったソフトの面もあるが、漢字をいかにうまく早く表すかということ。 NECのパソコンは漢字を機械的に高速に表示するROM回路を採用した。 CPUが386当たりまでは、これが正解だったと思う。国民機NEC98である。 反面、世界市場では異端児であることは免れない。
 CPUが高速になり、周辺機器も追従して高性能になりだすと、ROM回路は 不要になり、ソフトで漢字処理をすべて行って快適な段階を迎える。そうすれば 市場が大きく安いパソコンに移行することになる。僕も雑誌等で情報を集め CPUが486になったらPCAT機に移行する計画でいた。結局この 段階はWindows3.1の購入時期と重なった。国民機もPCAT機並み の価格となり、DOSのソフト資産を考えると”国民機でもいいか”ということで NECの486マシ−ンに落ち着いた。
 僕はいまPCAT機なんだけど、周りもみんなそうなんだけど、これは市場原理 の必然的な流れであるように思う。僕は早い時期にこの流れに乗ったと思っている。 僕はEPSON286、NEC386SX、NEC386(H98)、NEC 486DX2と4台の国民機を持っている。まだ捨てたりはしない。僕はWindows95 を今も使っている。Windows2000も出たみたいだけれど興味はない。新世紀 はLinuxと決めているから。Windows95をシェ−プアップして386 マシ−ンに載せたかったけれど、マイクロソフトはOSの情報公開をしてない。 コンパクトなOSの核(カ−ネル)は情報公開されている Linuxでやるほうが正解だとおもっている。僕は古い国民機を ゴミにだしたりはしない。知識がゴミをなくすと思っているから。そのためにも Linuxの勉強を21世紀から始めるつもりだ。たぶん、中国市場は別の意味で この方向に進むと見ているし。

 

ITて何?僕の場合
 

 コンピュ−タ−が個人に行き渡り、LANやインタ−ネットで繋がった。個人と個人 が深く結びつく。初めて社会が神経細胞を持った。この事が20世紀の終わりに実現した ことを感慨深く受け止めている。僕の子供の頃、21世紀といえば、まずロケットであり ロボットであった。コンピュ−タ−もあったかもしれないが、コンピュ−タ−によって 個人と個人がこんな形で会話できるという発想はなかった。別に壮大でもないことだが、 ロケットで月にいけなかったとしても満足な気がする。社会が神経細胞を持つこと、 小さな単位が連携して助け合えること、このことは今迄の社会に欠けていた 部分。新しい第三の波は確実に押し寄せて来た。そして私達個人に、しなやかな風の吹く 未来を予感させる。100年に一度の変革時期と言われる。そうであるなら、悲喜交々の ドラマが展開する。だれも無傷ではいられない。この時代を知恵を振り絞って乗り越えよう と思う。


2001.1.8
by Kon