「ぼくは土木に何を求めたのだろう?」

近藤昇(KONDOU Noboru)
RCCM (有)東海工務設計事務所

 
ベビ−ブ−マ−
 

 僕は1948年に生まれた。ベビ−ブ−マ−である。満州鉄道の技師として海を 渡った父が、敗戦で家族5人と共に引き揚げて来て、落着いた先の田舎で僕は生まれた。 家には小さな仏壇がある。その中に小さな位牌がある。若くして亡くなった祖父の位牌 なのだが、海を渡る時に持って行って、また持って帰ったものだ。 位牌には頭に笠があるのだが、僕の家の位牌にはない。 引揚船への道中で 何度も検閲に会いリュックのなかの金品や宝石は消えていった。 最後には金目の物は何もなくなり、リュックから取り出された位牌は 足蹴にされてしまった。その時、位牌の笠は見失われた。

 そんな日の出来事を祖母から幼い時に聞いて育った。無学な祖母であったが 勝気な性格で流暢な中国語を話した。祖父が戦前日本軍の軍属として済南で工務店を していた。その工務店の「おかみさん」として労人(ク−リ−)に日当を渡すのが 日課であったという。そんな事情からなのだろう。 祖母が語り継いだ断片的な中国の話から、僕は色んなことを学んだような気がする。
 例えば、軍隊は最終的には国民を守りはしないこと。終戦という混乱の中で、最後は 異国の人とはいえ個人と個人の繋がりが運命を決めるという事。笠のない位牌 は、僕の家族の歴史を刻んでいる。大切な我家の歴史である。

 子沢山の貧乏家族のなかで、長男である僕だけは大学に行くことになっていたようだ。 ただし、家から通える公立の学校と条件は付いていた。ぼくの大学四年は1970年。 浅間山荘への機動隊の突入はデ−トの喫茶店のテレビで見たのだから、どうしようもない ノンポリ学生だったのだろう。自宅通学の学生だったこともあるのだが、僕はセクト には入らなかった。今でもそうなのだが、僕は自分の目で見、自分の頭で考える、 この生き方の自由を失うこと は嫌いだった。そして50年程生きてきた。50才の誕生日に思ったことは, これまでと同じ時間をもう一度生きることはないのだろうということ。 前を見て生きてきたのだが、急に後を振り返ってみたくなる。 先が見えたという瞬間、誰でもすることに思えるのだが。


 
土木は「斜陽産業」
 

 ぼくの大学四年のその時、父は55才で長年の教師を辞め、測量事務所を始めた。 僕は英会話とコンピュ−タ−をマスタ−して東京のコンサルに就職を決める積もり だった。東京行きは反対された。父が商売を始た事はどうでもよかったのだが、 息子をあてにしていたとは知らなかった。僕の見つけた妥協点は大学院に進学 すること。父の会社に後輩のアルバイトを送り込む手配師が僕の役目になった。 そんな事情で、不勉強な学生のそしりも受けたがしょうがない。2年のマスタ−コ−ス が3年かかった。病気で1年休学する結果となったためである。その後、空席となった助手を3年 務め、コンサルに勤務することになった。

 僕が駆け出しの設計屋だった頃、こんな話を聞いた。打合せや計算のあと 設計の取りまとめをする。最終成果は設計図。例えば、橋の場合、橋梁一般図、 構造一般図、これが命。そのあとに構造詳細図、配筋図が展開されるが、これが 結構なボリュウムとなる。腕力勝負の力仕事といったところ。実際ドラフタ− で図面を書けばわかるが体力仕事である。友人が言った。「大阪の奴が事務所 を開いたのだが、自衛隊の馬力のある除隊者を5人も雇ったそうだ。」 確かに、これは正解だと思った。ただ、その会社は今はもうないのだが。

  僕は就職するとすぐに設計打合せに行かされた。構造計算や鉄筋計算には 自信があったが、「これ施工出来るの、 ユンボは入れるの?」といった 話題が飛び出す。冷汗ものだった。図面をこなすと言う事、設計打合せ を率なく行うこと、そういう設計業務の全体が分かりだしたころ第二次オイル シヨックで業務縮小ということになった。3年程では満足の行く成果など 出来やしない。設計という業務の怖さを、やっと知った程度だ。その時の会社方針 は施工管理に出向すること。僕は怖さを知ってしまった、ここで止めたら 一生悔いが残ると思った。会社方針に合わないのだから退社することにした。 小さな会社に身を寄せた。高度成長も終り、低成長の時期に僕はSOHOを 始めたことになる。だから基本的には土木は「斜陽産業」という認識を持つ て生きることになったような気がする。


 
グロ−バルスタンダ−ド
 

 僕がコンピュ−タ−と言えるものと付き合いだしたのは、1970年のこと。 大学四年になると、卒業研究のために講座を選ぶ。僕の選んだ講座の助教授は 電算機室のボスをしていた。当時校舎の一室に、年中25度にエアコンがセット された部屋があり、電算機が置いてあった。一般学生の利用が終わると僕の 研究室の学生は朝まで自由に使わせてもらえた。シュラフ持参でこの部屋で コンピュ−タと一夜を何度も共にした。コンピュ−タ−はプログラムを与え ないと何もしてくれない。プログラムは自分で組むのだが、誤りもある。何度 も繰り返し正解に近づく。ある時、輪転機のようなプリンタ−が真っ白な用紙 の片隅にアルファベット1文字ずつ打って膨大な用紙を出力した。もう時効 だから告白するが、国費の無駄使いに恐縮した。当時はモニタ−なぞない時代 であった。

 僕が会社務めをしだしたころ、民間会社でもコンピュ−タ−を使うように なり、NTTの大型計算機の端末が設置された。ちょつとした計算で 10万円程の請求書が来た。それを見て、使うのをやめた。もっぱら、 その頃出だしたプログラム電卓で仕事はした。

  そんな昔を知る僕にとって、コンピュ−タ−に関しては今は夢のようだ。 かって1億円もしたコンピュ−タ−がPCとして僕の机の上にあるのだ から。大型電算機もそうだったのだが、日本のパソコンは世界のパソコン市場から 守られていた。その防波堤の本質は漢字の問題。パソコンの能力が今程でない 時代、漢字処理をどうするかが一つの決め手となる。NECのパソコンは漢字を機械的 に高速に表示するROM回路を採用した。 CPUが386当たりまでは、これが正解だったと思う。国民機NEC98である。 CPUが高速になり、ソフトで漢字処理をすべて行っても快適な段階を迎える。そうすれば市場 が大きく安いPC/AT機に移行することになる。マイクロソフトのWindows95の出現 は劇的だった。僕のような設計屋は表計算ソフトは必需品だ。DOS時代はLotus 123が主流だった。マイクロソフトがMac用に開発したEXCELは優れものとは 知ってはいたが、国民機では動かない。そのあこがれのソフトがWindows95で 使えるようになった。これはOSメイカ−のマイクロソフトの戦略ではあったが、 ものの見事にLotus123の既存デ−タ−をコンバ−トしてしまえた。 それといっしょに「国民機ワ−プロ、一太郎」も消えた。国内市場に限定した商品は 結局消える宿命を背負うことを、僕は、はっきり経験したはずである。

  DOSレベルでWindows機能を実現していたジャストウインドウと いうシステムを僕は高く評価していた。もし、漢字をタ−ゲットとしてジャスト システムが世界市場を視野に入れて頑張ってくれていたら、もう少しちがった Windowsの世界が展開していたかもしれない。残念でならない。

  僕のような設計屋はEXCELとCADがあれば大抵のことは処理できてしまう。 CADはComputer Aided Designの略なのだが、ぼくが大学に席 を置いていた頃はLPなどの最適化手法で設計数値を自動決定することをCAD と呼んでいた。いつのまにかCADといえばコンプュ−タ−図化システムと狭い範囲で 使われるようになった。DOS時代、CADと言えばAuto CAD。当時定価 100万円。SOHOにとっては少し高額である。いつかはクラウンというCM があったが、いつかはAuto CADと思いながら低価格CADを利用していた。 円のレ−トが1ドル260円の時代、Auto CAD、100万円はリ−ズナブル。 ところうが、1ドル100円の時代にも100万円には変わりがなかった。 曰く、日本語化に対する費用加算。OSシステムがWindows95となり 日本語化とはFontファイルの差し替えだけというのに、まだ100万円。米国定価300ドル だから30万円がリ−ズナブルなはず。やっとAuto CAD日本代理店も値下げに動いた が、僕は低価格版Auto CADLTで十分と分かってしまったので、「いつかはAuto CAD」 は取り消してしまった。一般的に設計費は直接人件費に100%の諸経費が考慮される。 その40%の技術経費も考慮される。営業等で諸経費はしかるべき所に消えて ゆくが、僕のような最下流で鉛筆握って仕事をするSOHOに仕事が来る間には 直接人件費のみになってしまう。そんな風土のなかで生きている者にとって、 製品価格を見る目はシビアである。必要経費を安易に転嫁する先がないのだから。

  CADは100万円という神話を崩したもうひとつの要因にフリ−ソフトの 登場があった。国産のJWCADは優れものなのだが、僕は2004年の CALS運用という観点でWORD、EXCELへの乗り換え と同時にDOSのCADから一気にグロ−バルなディファクトスタンダ−ド のAuto CADLTに乗り換えてしまった。それは国民機NEC98、 「国民機ワ−プロ、一太郎」の教訓からでる。国内市場を 限定とした商品は通用しないとの時代認識は皆が学び取ったはずである。


 
ネットワ−ク
 

 ケンちゃんは大学の講座の後輩です。気は優しくて力持ち。そんないいやつです。 彼の4年の時、若狭へ夏のゼミ旅行をしました。海から上がり、民宿でのどんぶり飯3杯は 今でも、我が講座仲間の語り種です。今はコンサルで河川屋さんになっています。 久しぶりに10名程仲間が若狭に集まりました。一夜の宿近く、国道と海岸の間に露天 風呂がありました。日本海に沈む夕日を眺めながら、しばし歓談。ケンちゃんは最近ア メリカ視察旅行にいってきたとのこと。ニュ−ヨ−クでお寿司を食べて30ドルだった そうだ。「結構安いね。」、湯気の向こうで皆かが一斉に声を上げた。「いや、ステ−キた らふくで20ドルだから高いですよ、ハハハ。」、久しぶりのケンちゃんスマイルでした。

 視察旅行の目的はアメリカにおける建設コンサルタントの現状調査だったそうです。広いアメ リカでも総合建設コンサルタントは5社くらい。あとは、エンジニアが事務所を構え、ア シスタントを含めせいぜい4人程度。仕事の都度そんな事務所がチ−ムを組み、ネットで 情報交換して業務を進める。「へ−、そ−なんだ。」、僕は納得しました。そんな時代になれば いいなと思いました。1994年秋のことでした。

 今、僕は古いマシ−ンを3台LANを組んで使っている。10BASE−Tだから通信速度は 10MB/s。インタ−ネットはISDNだから通信速度0.064MB/s。 もうじきYahooBBの7MB/sが使えるようになる。将来は光になるだろう。 社内LANの10MB/sで、将来光ファイバ−の30MB/sがどんな感じかは 想像できる。社内LANで隣のPCのハ−ドディスクを使うのだが、自分のマシ−ンと 差異は感じない。遠く離れたセンタ−のハ−ドディスク も自分のマシ−ンと同じことになる。どんな社会が実現するかは想像はできる。すごいことだ。 日本はISDNでユーザーは1000万人という。お隣の韓国では当初 からADSLで450万ユーザーの市場が形成され、TOP3社が熾烈な競争をしている。これを 基盤としてネットカフェのような新ビジネスも活況のようだ。何といっても 128Kbps以上にスピード が上がる可能性のないISDNとのインフラ格差は歴然とした事実となってしまった。

 2001年5月29日、東京めたりっく通信が資金繰りに行き詰まった。  東京めたりっくは首都圏で約2万5000人の加入者を持つADSLサ−ビス会社。 加入者5万人が採算ベ−スという。NTT回線の開放が円滑に進まず、本格参入したNTT東日本に、 利用者数で追い抜かれた。ベンチャ−を首都圏で起こすという発想自体がもう古かったような気がする 。 1992年米副大統領が2020年目標の情報ハイウエイ構想を打ち出した。通信先進のアメリカ 東海岸ではなく、通信僻地のシリコンバレ−から1995年インタ−ネットは夜明けを迎え、 あっと言う間に第2、3のIT革命の波がおしよせた。僕のような地方のIT僻地で ベンチャ−が「ADSLサ−ビスいかがですか」と売り声を上げて町を回ったら、僕は追っかけて行 って買っちゃいましたがね。

 ADSLはもうベンチャ−でなくなってしまった今、次は光か無線であろう。光か衛星かといったほ うが具体的なのだろう。どんなタイミングで、誰が僕にブロ−ドバンドの売り声を掛けてくれるのだろう。 次のステ−ジはNTTの一人舞台ではないことは確かだ。電力会社、鉄道会社、放送会社、 どこがワクワクするような売り声を掛けてくれるのだろうか。


 
アマゾン.コム
 

 IT革命の第1シ−ンの伝説上の人物となりつつあるジェフ・ベゾス氏だが、「バンカース・トラスト」 で史上最年少の副社長に就任していた氏は、ネットの限りない可能性を信じ、「80歳の時に人生を振り 返って後悔しないために」と、高額の収入を投げうって起業した。1995年7月のことである。 金融関係のネットワークシステムの分野で活躍し、ネットの限りない可能性を信じ行動した最初の男 にちがいないのだろう。そして氏が目指したものは「可能な限りすばやく巨大になること」であり、 リスクマネーが氏に集まった。米国のネットバブルがしぼみ、黒字を出せないEコマ−スのスケ−プ ゴ−ドにされた観のある今日だが、「ネット革命インフラ構築プロセス」におけるヒ−ロ−であったこ とは動かしようのない事実だろう。たとえ黒字が出せなかったとしても氏に集まったリスクマネーは将来 にツケを回す性格の資金ではない。アマゾンが破綻すれば会社として買収される側に回るだけだ。多くの 人が「振り返って後悔しない」マネ−ゲ−ムをしただけのこと。ただひとつ、僕は、なぜジェフ・ベゾス氏 が「ターゲットは書籍だ!」と決めたのか、その事を知りたいと思っている。

 僕は一度だけ自費出版をしたことがある。ボランティアの会でシンポジュ−ムの企画、運営に参加し、 その報告書の出版事業であった。当初から予算がないので電子出版を目指していた。皆で手分けし講演会 のテ−プ起こしから始まり、Wordで写真等も割付け原稿を作った。すべてこちらで原稿を作って 印刷屋に渡しても80万円がいった。版下を作り輪転機を回すには最低必要な費用であった。  写真はスキャナ−で読み取ってBMPで原稿に割付けた。年賀状用のカラ−プリンタ−で印刷し、 そこそこ見られるようにするには結構高い解像度で保存しておく必要があった。ファイルサイズの大きく なるのに閉口していた。出版社に原稿を渡し一段落した後、出版費用の回収のため、あらゆる宣伝方法 を考えた。ホ−ムペ−ジを立ち上げ宣伝することにした。

 Wordは文書デ−タ−をHTMLで保存できる。 HTMLに変換してみた。画像はJPGに変換した。 なんと軽快なこと。すぐインタ−ネット用ペ−ジができた。ロ−カルのHDDからIEで眺めて感心 した。自分で作ったペ−ジがPCで見られる。サ−バ−に送り込めばインタ−ネットで見られる。 ちょっとしたカルチャ−ショックであった。しかも、本全部インタ−ネットで見られるようにしても 無料ホ−ムペ−ジスペ−スを利用すれば費用は掛からない。全部見せてしまったら本は売れなくなる 。概要だけネットで流して宣伝することにした。

 この時、電子出版、いはゆるDTPは頭の中から消えてしまった。少なくとも小規模出版はホ−ム ペ−ジ。そう思った。僕は印刷出版業界に身を置いていないのでいいのだが、えらい時代が来るものだと 予感した。今はひたすらHTMLでペ−ジを書いている。この一度だけの経験でIT革命の行き着く 先を具体的につかみ取ったように思う。

 最近、アマゾンがアドビのPDF(portable document format)を利用して書籍を eBook化すると発表した。 アドビのAcrobat Readerは印刷イメ−ジを電子デ−タ−で閲覧できるもの。僕もこれを配布するサイトが あるので利用はするが、出版、本、印刷物というイメ−ジに引きずられた中間商品でしかないと思ってい る。最近プリンタ−という商品にも関心がなくなってしまった。なぜジェフ・ベゾス氏が「ターゲット は書籍だ!」と決めたのか、その背景を知りたいと思っている。この5年足らずのうちに、時代はフル スピ−ドで動いたのだろうか。それとも不連続点が出現したのだろうか。多分一度だけの出版で、僕は その不連続点の21世紀側に飛び移った。そう思っている。




 
「イリジウム」は何だったのか
 

 地球全域で通信可能な世界初の衛星携帯電話として 「イリジウム」は1998年11月華々しく登場 した。株の18%を持つ米モトローラを筆頭に米国主導の次世代ビジネス。日本からもDDI が出資していた。僕も「イリジウム」のWEBペ−ジを見たし、資料も請求してみた。今手元にある パンフレットから、その概要は以下である。
地上760キロメートルの低軌道に66機の衛星を周回させ全地球をカバ−。
*地球どこでも1つの番号で通話できる
*地上3600キロメートルの静止衛星に比べ音声遅延がない
*衛星と端末の直接交信で地上インフラを整備する必要がない

 この電話が普及すれば雪山遭難者が家族と会話できる。 すごいなと思った。 通話料を調べると6$/分。国内間の通話料でも1.64$/分。まだ日常生活には使えそうにない と感じた。それに端末が37万円。 目標加入者数60万人に対し、1998年12月時点で約5万と苦境に陥っていた。衛星システム維持には、 月額1000万ドル近い運転資金が必要という。 1999年8月に「イリジウム」は米連邦破産裁判所に 会社更生を申請する。 DDIは2000年1月14日、「イリジウムは清算以外にない」とし、3月期決算で 特別損失を計上した。総投資額は推定50億ドル。この次世代ビジネスはわずか1年余で崩壊し、 66機の衛星は次々と地球の大気圏に突入、燃え尽きる運命となった。

 この「イリジウム」に関心を持った訳は、日本のバブルにおいて「土地」 以外に投資先がなかったか という疑問からである。「イリジウム」は1990年に計画が始まり1998年に衛星打ち上げを完了していた。 IT時代の情報端末として携帯電話は動かし難い地位を獲得する。 地上の設備投資を必要としない この計画が成功すれば、明らかに資本の投資先は「土地」ではなく「宇宙」となる。その流れは間違っ ていないはずだ。なぜ66機の衛星は消えるのだろう。少しニュ−スをフォロ−してみたくなった。

 もうひとつの衛星携帯電話事業「ICO」(本社・ロンドン)があった。衛星12基を稼動させて2000年8月の 事業開始を目指していた。日本からはKDDが出資していた。イリジウムと同様、資金難に直面。 1999年8月に会社更生申請を強いられていた。イリジウムとの違いは、まだ衛星を打ち上げていなかっ たことである。 音声主体のシステムをインターネットに応用出来るデータ通信主体に変える ことが可能であった。この変更で追加投資をし、開業は計画より2年遅れで実施される。

 全地球をカバ−する衛星網による携帯電話。「イリジウム」がやらなければ誰かがビジネス特許を 取っているだろう。この次世代ビジネスも音声主体からデ−タ−主体へ、アナログからデジタルへの 時代の変化とそのタイミングで明暗を分けた。

 僕は「イリジウム」は「ファラオ」でなかったかと思っている。 古代エジプトの王「ファラオ」 は人にパンを約束してピラミットを建設した。ピラミットは王の墓 であり人々の生活に直接必要ではなかった。しかし、日々の人民の糧を保証し 水路や灌漑を作る技術 の継承と改良には役に立ったはずである。そして王国が維持されたことになる。

 「イリジウム」の計画の発足が1990年。 ベルリンの壁の崩壊が1989年。米国の軍需産業は 新たな市場を模索したはずである。過剰な生産設備の産物は66機の衛星として消滅させられる宿命を持って いたのではないのか。すくなくとも推定50億ドルの投資で生活の糧を得た人は少なくない。「イリジウム」は 「ファラオ」でなかったのか。



 
「人口ボ−ナス」
 

 僕も少年の頃、プラモデルの戦艦大和を作った。確かに、大和の姿は美しいと今でも思う。 大和は名艦として登場した時、すでに巨砲艦の時代が終っていたという悲劇を 帯びている。だから美しいのかもしれない。この国は、あの戦争の総括 において大和の物語から学ぶべきものを学んでいないように思われてならない。 多分、Japan asNO.1ともてはやされたあの時期は大和の悲劇の 繰り返しの序幕であったような気がする。

 1999年の建設白書は、戦後日本経済の回顧において、高度成長の秘密を人口ボ−ナスと定義 している。バブル崩壊と少子高齢化を論じるこの論文を僕は高く評価している。

 戦災で焼け野となり、これと言って資源のない国に、唯一ベビ−ブ−マ−という資源があった。 確かに、僕達が受験戦争を終えてご褒美にステレオを買って貰った時期にはサンスイという会社が業績を 上げた。大学生の頃、VANとかJUNとかのシャツが流行しVANジャケットが 業績を伸ばした。住宅産業然り、教育産業しかりである。ベビ−ブ−マ−の成長は国内市場を成長させていった。 この経済ファンダメンタルの上に、基本的には戦前の富国強兵政策が、主役を軍部から官僚に交代し同じ風土で 戦後復興という高度成長路線を邁進したのだと僕も思っている。

 化石燃料をエネルギ−資源として、自由主義経済圏であれ、共産主義経済圏であれ、産業主義は拡大再生産 が可能のうちは矛盾が生じない。グロ−バルな規模で国家を構成員としてで行う「ねずみ講」システムが産業主義 というビジネスモデルであつた。このビジネスモデルに突き付けられた命題は環境問題であり、地球温暖化 問題である。システムの基幹に迫る命題である。さらに、良質な若年労働者が少子高齢化へと変質する日本の 特異状況が重なる。極めて深刻な状況である。この点を、 「人口ボ−ナス」というキ−ワ−ドで現状認識を明確にした1999年の建設白書を 僕は高く評価している。この国の社会資本整備を主管する省が、少なくとも 明確に過去の経済ファンダメンタルと未来の経済ファンダメンタルを明文化したことに、 かすかな希望を持っている。それは僕だけだろうか。

 その対処法として、政策の説明責任、公正な事業評価システム、PFIによる民間活力 の導入等、議論は尽くされているように思う。敢えていうなら、産業基盤整備を第一目標 にした政策から消費税導入に政策転換をした時点で、官の体質風土を説明責任(アカウンタ ビリティ−)を第一にする体質風土に転換完了していることが必要不可欠であった。 巨大組織の本質的な弱点により、それは未だに不完全といわざるを得ないが。

 確かに、社会資本整備を本来の目的とする公共事業投資の役割は終った。これから、 この国は美しく老いる方向で進まなければならない。公共事業投資は光の部分から 影の部分へ所得再配分の使命を担っていた。この国の風土として、その大半が 税と預貯金で行われてきた。エジプトのピラミット建設のように王の富の 配分でもないし、アメリカの「イリジウム」やITにおけるような株といった債権市場 のリスクマネイでもない。借りたものは返さなければならない。だがしかし、 35年先に返しますという計画は、今や通用しない。35年先のこの国のかたちを 誰が明確にイメイジできるだろうか。7年後に金融システムの不良債権を半分にする といったコメントに、株は下落という回答を示した。僕はこれが健全な市場反応だと 思う。

 この変革の時期をとう捉えるか が問題なのだが、それを見極めたいと思っているのだが、僕は敗戦、明治維新を遡り 鎖国政策の始まった時まで遡ると見ている。400年間に培われたこの国の風土が、 産業主義の終焉とグロ−バル化の中で、崩壊するのか、再建されるのか、成長に 転じるのか、その試練の中にあると思っている。ひょっとして、唐という超大国 の出現した国際動乱のなかで日本国が形成された、その時まで遡る のではないかとも思う。縮小均衡という極めてナ−バスな局面は、この国は未だかって 経験した歴史を持っていないように思う。各階層、各個人が痛みを伴う日々を 乗り越えて行く時、果して国家としての日本が成立しうるのか、そんな局面 だって起こり得ないと誰が保証できるだろうか。

 そのような時代認識に立つ時、35年先の返済計画とは、有り得る話ではない。 僕のような最下流で鉛筆を握って生きてきたSOHOは、今仕事はない。既存元請けが 120%の受注量になった時、初めて外注物件が発生する。全体のパイが10%減ったと しよう。元請は自社の生存を掛けて内部消化せざるお得ない。最下流にはパイは流れて こないことになる。 ある仲間は、建設会社の現場監督に出て日銭を稼いでいる。彼はいう、「単価がどんどん 切り下げられる、それで浮いた金は銀行に上納される。必要以上の仕事はしたくないね」と。 この国で、従来の社会システムを担った建設産業が「負組」として痛みを伴う構造改革 に直面する。程なく年金というセ−フティ−ネットに手の届くハッピ−な世代はいい。 だがしかし、自分だけならなんとかなると思うのだが、スタッフを背負って この痛みを2年も3年の耐える余裕は皆さんあるのだろうか。ベビ−ブ−マ− SOHOの、これが宿命ということのようだ。



 
おわりに代えて
 

 「あなたは土木に何を求めますか?」という問に対して、僕はまず 「あなたは、この変革時期をどのように捉えますか?」という議論から始めないと 会話が出来ないように思える。もはや、限定した土木工学論て議論がまとめられる とも思えない。それと、僕の生きてきたスタンスで言えば、総論や概論を言うポジションではない。だから、 SOHOとして生きた一土木技術者からの報告とでもいう発信にならざるを得ない。

 今、ITにより社会が双方向の神経細胞網を手に入れようとしている。 個人と個人か立場を越え、国境を越え繋がる。そこでは、まず各論がら展開される 世界のように思える。僕の家族の歴史において、異国の人とはいえ 個人と個人の繋がりが運命を決めるということを語り継いでいる。これから はじまる痛みを伴う歴史において、身内相争うという凄惨な状況になるのかも しれない。だが、共に苦難を生抜いたという記憶が、何時の時代においても、人と人の 繋がりの基本であると信じている。

  IT革命の先には、「しなやかな風」が吹いている。僕にはその風が見えるような気がする。 だが、その風は、誰も無傷で手に入れることは出来ないとも思っている。3年前の金融ビッグ バンの始まった時、僕は覚悟を決めた。事務所を半分にし、少し身軽になった。「しなやかな風」 の到来を夢見、日々をしなやかに生きるより術ななさそうだ。

2001.8.31
by Kon
e-mail akon@cool.ne.jp