稲葉宿と三宅川


街道を西に進むと橋を渡る。橋の名は(はえのはし)。

「魚」へんに「少」で、はえと訓む。

川は、かっての木曽川の本流であった三宅川である。

下流を望む川の姿は子供の頃と変わっていない。

一面の田の風景であったのが、住宅が出来た違いである。

橋を渡り、次の信号で街道は直角に北に折れる。その地名は「石橋」。

すぐまた西に折れ、斜めに串原(一宮市)に向かう。

小学4年の頃の思い出であるが、

雨上りの日、水溜まりの砂利路を歩いた。

路の脇は草むらで、松並木が確かにあった。

路の形と、わずかに残る旧家で、街道と今でも推測できる。

この先で尾張中央道の突き当たる。

ここで風景に刻まれた街道の記憶は失われる。


引き返そう。


信号から次の曲り角の中間で、宿場の裏通りに入る。

稲葉橋。昭和2年竣功のコンクリ−トの橋。

三宅川はここで、大きく東に曲がり、街道に並行に北に位置を取る。

街道とこの三宅川で挟まれた土地に集落が形成され、歴史を重ねたことになる。

三宅川は、国府宮の参道の二十五丁橋あたりを流れる大河であった。

大江川により分流水路ができ、水は減った。

江戸期には本流に堤防が出来、その使命を終えた。

稲葉宿の東の方では、今はコンクリ−トの蓋をした暗渠である。

1300年前、ここが木曽川の本流であったことは忘れられた物語。

「昭和43年刊、稲沢市史」掲載写真より


しかし、その痕跡は今でも集落の形から分かる。

航空写真を見た時、この地に人が住み付いたのは

相当古い時期と直感した。それは、私一人だろうか。



稲葉橋を渡り、稲葉神社の一の鳥居を過ぎ神明社に出る。

これが、稲葉宿の裏通り。

2000.8.14
by Kon