一里塚


北市場、六角堂を通り、ここ四ツ谷で岐阜街道(鎌倉街道)と分かれる。

現在のJR操車場横を岐阜街道は北上する。

美濃路は西に向き井之口へ向かう。

六角堂の前の道標”左京都、右岐阜”はかってここにあった。

この四ツ谷追分の近くに一里塚があったといわれる。

井之口で斜めに北上、

長束を通り国府宮の一の鳥居を西に向かう。

高御堂で斜めに北上し稲葉宿に入る。

稲葉宿の手前に一里塚があった。

この写真手前に”一里塚跡”の標識が立つ。

現在の南大通り交差点を望む。



天正12年(1584)、小牧.長久手の戦いの前、

織田信雄(織田信長の子、清洲城主)は

井之口−長束−小池正明寺−高御堂−小沢−石橋−櫛作に

幅5間の道路を築かせた。

各村にはこれから幅3間の通路ができる。

これがこの地方の主要交通路となる。美濃路の原形である。


関ヶ原の戦いで徳川家康はこの路を通り凱旋する。


徳川家光はこの路を通り上洛する。


寛文11年(1671)琉球王使の一行は桑名沖で遭難する。

それ以来、12回の琉球王使の行列がこの地を通った。

朝鮮信使もこの路を通り江戸へ向かった。



300年に渡り、この街道は歴史の表街道であった。



オランダ商館医師シ−ボルトの日本地図には

Nagoja、Inujama、Inaba、Wokoai

と認められる。



2000.8.14
by Kon