中観音堂の円空仏

岐阜県羽島市上中町中


 新幹線羽島駅から県道大垣羽島線を羽島市に向かい、狐穴の信号交差点を南に折れると名神高速道路を潜る。 すこし行って東に入り名鉄羽島線の踏切を越す。中区駅の脇に中観音堂と羽島円空資料館がある。
 ここが円空の出生地といわれ、小さな堂宇を20年前に再建し、17体の円空仏が安置されている。
 この観音堂は今でも村の共同管理で、おばさんがひとり番をしていた。拝観料300円を納め手を合せると、それではといって解説のテ−プのスイッチを入れてくれた。本尊の左右に並べられた円空仏に、どうぞ近くに寄って見てくださいと促してくれる。写真撮影はいいかと聞くと、お志のお賽銭をお願い しますねと許してくれた。二組程の客が資料館に向かったが、僕はここで30分程の長居をさせてもらった。

〔円空資料館〕
料金:300円 
開館時間:9〜17時
月曜日休館
問合せ先:羽島市観光協会
tel 058-392-1111
 本尊の十一面観音像は高さ2.22mと大きく、つくりも丹精である。洪水で亡くした母を弔うために彫ったと言われるのが肯ける。


この地一帯には多くの円空仏が残る。
羽島市円空仏MAP



自刻像
岐阜県大野郡丹生川村千光寺蔵
円空
寛永九年(1632年)〜元禄八年(1695年)

貧農の父親のいない子として育てられる。
十九歳の時、母を木曽川の大洪水で失い寺に預けられ, 高田精舎での密教修行の後、23歳で伊吹山の修験場、平等岩に篭る。

寛文3年(1663)下山した円空は岐阜県美並村に赴く。その地の神明神社に天照皇太神像を残す。最初期の像である
寛文5年(1665)頃に30歳代半ばで越前から海路津軽に行き、蝦夷地(北海道)に渡る。
生涯に12万体の造仏を祈願し諸国を遊行。
六十四歳で入定(即身成仏)し生涯を終えた。



阿弥陀如来像

不動明王像
鬼子母神
南無太子像

大黒天像
弁財天像
神像

護法神天像
護法神天像
金剛童子像

観音像
この観音堂の仏像は円空初期の作が多い。
35歳で岐阜県美並村に赴いた円空は土地の木地屋に巡りあう。
木地屋とは材料の荒挽きや塗物ではない木地の腕などを作る者。
木端から鉈ではつり出す円空の作風はこの影響によると言われる。

遊行の途中、何度もこの観音堂を訪れたといわれ、護法神像は 48歳の中期の作。


護法神天像
中観音堂の北800m長間薬師寺蔵
ここには9体の円空仏がある。








大般若経奥書
上野国一宮貫神社旧蔵
現在は千葉県芝山町はにわ資料館蔵
(円空資料館の複製)



蝦夷地の海岸沿いの洞窟で修験、造仏をし、北海道には42体の円空仏が残る。
寛文6年の在銘仏には、依願者の松前藩重役・蠣崎広林の名あり,
他の仏像に登頂した臼岳の名前と江州伊吹山平等岩僧内との自著がある。

延宝四年(1676)尾張国愛知郡荒子観音寺に滞留。仁王像、千面観音像を刻む。
千面観音像の木箱には
これやこの くされる浮木とり上げて 子守の神と 我はなすなり
と記す。円空45歳。

飛騨高山の袈裟山の山腹の千光寺に立木仁王像他54体を残す。
厨子銘より貞亨2年(1687)54歳。

岐阜県吉城郡上宝村金木戸にて、十一観音など、三体を残す。
そのひとつに十万体像顕達成を記す。円空59歳。

元禄5年(1692)
岐阜県武儀郡洞戸村高賀神社で即身仏入定の準備のため一切のものを整理。

元禄8年(1695)
断食に入り念仏結印のまま、7月15日孟蘭盆の日に没す。円空64歳。
岐阜県関市池尻の弥勒寺の長良川河畔に入定塚が残る。

円空仏の発見された場所は下記のように多く、遊行の跡を偲ばれる。
岐阜・愛知・三重・滋賀・長野・群馬・青森・秋田・栃木・
静岡・神奈川・東京・福島・埼玉・ 千葉・富山・北海道


修験道は明治革命の時、日本の信仰世界の表から消える。
自然の中で生き、自らに目標を課して生きた円空の仏が、
私達に語りかけるものは何だろう。


一度この地を訪ねてみてはいかがですか。


2001.4.29 by Kon