大正初年、アメリカで大量生産方式の自動車が生産されはじめ、大正末には輸入自動車が2、3千円で購入できるようになった。大正12年(1923)の関東大震災で鉄道網が大きな被害を受け、復旧に相当の日時を費やした。この状況で、自家用自動車の普及が始まる。 愛知県の統計にその状況を見てみよう。
(「愛知県昭和史上巻 第3章 都市と交通の発達」より)
人力車は、乗用車(タクシー)に置き換わり、馬車は貨物車に置き換わる。乗合自動車(バス)の影響は鉄道に現れる。鉄道省の昭和6年の調査では、5キロ圏で20%、10キロ圏で16%、全体で12%の輸送人員の減少を示した。80キリ以上は影響がなかった。短距離輸送の私鉄はバス部門を新設しないと淘汰されることになる。 昭和10年に貨物自動車が普及段階に入る。そのまえぶれとして、昭和4年に名古屋市への貨物の集散取扱量が鉄道から自動車に逆転している。 昭和10年は、一つの転換点と見ることができる。 |
明治9年(1876)、道路を国道、県道、里道の三種に分類し、さらに一等、二等、三等の等級に分けた。 ・ 一等は、東京より各開港場に達するもの(1〜8号) ・ 二等は、東京より伊勢(9号)及び各府(東京、京都、大阪)と各鎮台(東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)に達するもの(10、11号) ・ 三等は、東京より各県庁に達するもの、各府、各鎮台を連絡するもの(12〜44号) 明治18年(1885)に国道の等級は廃止しされ、国道を1号から44号の44路線とした。すべての国道が東京の日本橋から始まっている。国道1号は横浜まで。国道2号は、横浜までは1号といっしょで、それから大阪までといった決め方。一等、二等、三等が上の( )内の号に割り当てられている。 大正8年に「道路法」の制定により、道路は国道、府県道、郡道、市道、町村道の5種類に分類され、大正9年、38の国道が認定される。郡道は郡制の廃止に伴い大正11年から廃止されている。この頃の、国道1号は東京→横浜→熱田→四日市→伊勢、国道2号が東京→四日市→大阪→北九州→鹿児島となっている。 愛知県でいえば、現在の1号が旧東海道であり、国道12号が東京→名古屋→岐阜→関ケ原→木之本→金沢となっていた。 国道1号は、木曾三川渡河が大正10年に県営渡船となっていたが昭和5年の発動機船導入まで手こぎといった状況であった。当時の自動車は国道12号を経由していた。 |
江戸時代、名古屋から岐阜へは笠松の渡し場を利用していた。国鉄東海道線が明治20年(1887)に,200フィート(61m)のトラスを9連並べ木曽川をわたる。国内の道路整備が進んだ明治43年(1910)に、その下流2kmで国道12号に橋が架けられる。だが、木製トラスであった。 美濃電気軌道と合併した名岐鉄道(現名古屋鉄道)は念願の名古屋-岐阜直結のため昭和6年に木曽川橋梁建設に着手。年間売上300万円に対して200万円の予算であった。昭和9年(1934),橋長 481.7m曲弦ワーレントラス7連が木曽川に架かる。国道12号の上流800mの位置であった。 国道12号の木製トラスは昭和10年に架け替えに着手された。有効幅員9.5m、橋長 462.4mのブレースドタイドアーチとして昭和12年(1937)完成している。昭和44年(1969)名岐阜バイパスの新木曾川橋完成まで、名古屋と岐阜を結ぶ交通を一手に担ったのである。この橋の設計者は増田淳であった。 |
江戸時代、名古屋城下に入るには名古屋五口と呼ばれる街道を通った。現在は東の清水口が地名として残る。北西の口は枇杷島。庄内川の中州に小さな島があり、ここに木橋が架かっていた。尾張平野を斜めに横切り中仙道の垂井宿に結ぶ美濃道、笠松から岐阜に通じる岐阜街道がここに集まり、青物市場の「小田井の市」として栄えていた。 明治39年、東海道線枇杷島駅が開設され、大正4年に名鉄西枇杷島駅が開設されている。時代を通じて交通の要衝であった。
改修前の国道12号
枇杷島陸橋完成記念絵葉書(土木学会ライブラリ) 旧東海道の国道1号線は、昭和8年に木曾、長良、揖斐に長大橋が架かるまで自動車の利用できる路線ではなかった。旧岐阜街道に沿って整備された国道12号に自動車は迂回していた。自動車交通の増大により交通量も衰えず、枇杷島での名古屋鉄道との交差がネックとなる。昭和7年から国の直轄改良工事として立体交差化が行なわれた。
昭和10年(1935) 国道12号(現在の県道名古屋祖父江線)
枇杷島陸橋 完成記念絵葉書(土木学会ライブラリ) 名古屋鉄道を越す中央部分は、平地より5.5m上を越す必要があり、前後5%の勾配で取り付けるため、橋の全長は160mに及ぶ。中央桁部は23.6mを、桁高1.95mの鋼鈑桁で越している。 桁が高欄を兼ねる中路式である。できるだけ路面を下げる形式を選定したのであろう。 枇杷島陸橋 完成記念絵葉書(土木学会ライブラリ) |
名古屋方の問屋町(橋詰町)の高架と北の日の出町(住吉町)の高架は、ほぼ同じ形式の鉄筋コンクリートラーメン形式である。10mごとに橋脚を設け、上の床版桁部を一体として完成させている。70mのうち2スパンを一体で建設し、その後中間を作る工法を取っている。従って
、端部7.3m、中間6m、中央側8mの吊桁となっている。掛け違いの桁端にヒンジが出来て、このゲルバーヒンジ部が構造的に応力を開放する役目をしており、昭和初期、長大橋を建設する場合の標準形式である。その後、PCコンクリート桁が登場し、工場製作桁を掛け渡す形式になるが、現場で組み上げた時代の見本と言える設計例であろう。 建設当時、6m幅の道路は立派なものであったろう。昭和13年の交通量は笹島交差点の県道名古屋津島線で3146台/日。この枇杷島では479台/日と記録に残る。今この橋を渡ると、現場打ちのコンクリート高欄が両脇から圧迫感を与え狭さを感じる。だが、日本のモータリゼーションのさきがけ時代に建設され、60年の時を生き抜いた橋である。貴重な存在と言える。
枇杷島陸橋完成記念絵葉書(土木学会ライブラリ)
当時、工夫の形式であったゲルバー橋であるが、地震の時に、中間の短い吊り桁部が落下した事例があり、現在は連結金具で補強されている。更に、木杭である基礎を、周囲に径90cmの杭を増設して補強対策もされている。中央の鉄桁も現在の設計荷重に対応するため鋼床版形式で平成3年に架けかえられた。「小田井の市」として歴史あるこの地で、日本のモータリゼーションのさきがけとなった姿を末永く留めていてと願うのである。なを、この橋の前後2416mの改良工事に103万円が投資されたと記録に残る。 |
国道12号は国道22号となり、名岐バスが昭和44年(1969)新木曽川橋を完成させ、名古屋と岐阜を結ぶ自動車交通の主流はこの橋から移っていった。完成当時、
田園の中に出現したこの鉄道跨線橋も、今では街中の道路である。もともと交通の要衝、名鉄、JR、JR新幹線、名岐バイパスと大動脈が通る一帯、新線を建設する余地は見当たらない。現在も県道名古屋祖父江線として、地域間交通の動脈である。 鉄道高架は鉄道建築限界と自動車のための縦断勾配の条件により、常に安全性、経済性、快適性の条件のなかで最適案を要求される。そのポイントは、交差部の構造高さである。陸橋のパイオニアと呼ぶべきこの枇杷島陸橋においても、わずか60cmである。この空間の中で自動車を支え鉄道を越させていた。30cmの鉄筋コンクリートと30cmの鉄桁によってである。 昭和10年の建設当時、設計で想定した車の重量は8tであった。現在は、すくなくとも20t を想定する必要がある。60cmの空間で、2.5倍の強度の荷重を支える改良が必要である。 歴史ある構造物。外観を変えずにそれを実現する必要がある。選択された形式は鉄筋コンクリートの床版を鉄板の床版に変えることだった。 鉄道も道路も日夜絶え間ない交通を支えている。最近においては、情報インフラの光ファイバーさえ添架されていた。改良工事において利用できる時間は、終電から始発の通る4時間しかない。この条件の中、あらゆる工法を検討し、周辺住民、道路利用者への配慮を元に、大型クレーン一括架設により総工期2ヶ月でリフレッシュを終えた。平成3年(1991)のことである。 なお、旧橋の撤去に際して、床桁にはジベルはなく、合成効果は考慮されていなかったことが判明している。 国道としての大動脈の役目が終ったとして、お役御免で余生を送る訳にはゆかない。多くの都市内陸橋はそうである。そのパイオニアの枇杷島陸橋は建設56年目にしてオーバーホースされた。近代化遺産としての観点から見れば、それは改変ということで、ランクダウンはいたしかたない。しかし、社会資本としての橋は、現役であることが名誉である。それをおいて、何物でもない。だが、その改変には、少し古びているとしても過去の栄光を正当に評価する心遣いがいる。過去の記録を、画像、図面、計算書、報告書できちっと保存すること、常に閲覧できる事。これが必要な「心遣い」であり「敬意」である。 都市内陸橋のパイオニア枇杷島陸橋は建設56年目にしてオーバーホースされ、今日も新たな歴史を刻んでいる。 |