惜別の辞
カ−テン越しの薄明かりで目覚める。ホテルから見下ろす風景で街の表情が伝わってくる。
先生から借りたガイドブックで今日の日程を確認する。本に挟まった付箋と蛍光ペンのマ−
クで、さほど時間を必要としない。先生がこの旅をどれほどの情熱を傾けて計画されておら
れたか、毎朝確認することになってしまいました。
その日は、とても暑い一日でした。お昼に上海虹橋空港に降り立ち、上海近郊に点在する
石橋を見学し蘇州へ向かう専用バスでの行程でした。七宝鎮、松江、朱家角、金沢鎮と10
橋ほど視察し、夕方、蘇州のレストランについたのは7時を回った頃でした。先生の乾杯の
音頭で夕食が始まり、初めて訪れた中国とその石橋や人々の生活に接し皆の会話がはずみま
した。先生も少し御酒が入り、上気したお顔で満足そうに眺めていらっしゃいました。食事
も終わり頃、先生はトイレに立たれました。席に戻る折り、ふらっとされ、尻餅を付きかけ
ました。 近くの者が駆け寄りましたが、「大丈夫」と照れ笑いをされました。この事を契機
に、程なくして、それではホテルにとなり、皆が席を立ち入口に向かい始めました。後尾に
おられた先生が、「おい、ちょっと支えてくれ」といわれ、沈み込むように腰を落とされま
した。「先生、大丈夫」。 後ろの声に皆が足をとめました。 「頭の位置はどうするんだ」、
「とにかく寝せよう」そんなやり取りの間に従業員が枕にするソファ−を持って飛んできまし
た。添乗員の寺本さんと林さんが緊急連絡に部屋を飛び出していきました。床に横たえた先
生は鼾をかくように呼吸をされ、大きく息を吐かれました。ベルトをゆるめ、久保田さんが
脈を取っていました。寺本さんが上がって来ました。私は「Too late、Too
late、Who is a docter or nurse ?」と廊下を行ったり来たりすることで精一杯で
した。公安2名が到着しました。説明では救急車は2台しかなく到着に目処が立たない。パ
トカ−で救急病院へ運ぶとのこと。3階から玄関先のパトカ−の後部座席に先生を座らせ、
奥様が同乗されました。「私行きます。」岡本さんが手を上げ、横田さんと真樹さん、そし
て寺本さん、林さんがレストランの車で追いかけました。30分程の間の出来事だったでし
ょうか。
残りの者は専用バスでホテルに向かいました。7名を3、3、1に分け病院への支援ロ−テ
− ションとホテル常駐スタッフを決めました。チェックイン後、先発チ−ムはシャワ−をし
即病院 へ向かうことにしました。各人が部屋で荷物を解き、一段落した頃、9時を回った頃で
しょうか 先生の様態が思わしくないので全員病院へ集合の連絡が入りました。
緊急入院先は人民第2病院でした。1階の救急処置室の2つのベットの手前に先生は横たわっ
ていました。酸素吸入と心臓マッサ−ジ機の「シュパン、シュパン」の音と光景が今でも鮮明に
記憶に残ります。全員がベットの周りに集まりました。岡本さんが「医師は最善をつくしました
が、残念です。心臓マッサ−ジ機を止めたいと申しています。」奥様に語り掛けました。奥様は
「..はい。」そう一言肯かれました。岡本さんは右手で眼鏡を外し、先生の足元に両手を付き
「先生、ごめんなさい。本当にごめんなさい。」そう声一杯で語りかけました。
看護婦が口から酸素吸入のチュ−ブを抜き取りました。目は閉じていました。少し開いた口
を,ここ2年程貯えられたあごひげに触りながら閉じてあげました。「なんてことだ。」そうつ
ぶやくしかしかたありませんでした。「中国まで来て。なんでこうなの。」小沢も同じ思いだっ
たのでしょう。それぞれにお別れをいいました。「I do the best」。「Yes ,thank you very
much」 私達の横で医師と岡本さんが挨拶を終えました。私と市村さんは日本からの連絡受けの
ため、先にホテルに帰ることになりました。
もう2時を回っていたでしょうか、全員がホテルに引き揚げてきました。緊急病院には長期遺
体安置の設備がなく、先生の遺体は病院から移されたと報告されました。ホテルから国際電話で
御子息に報告をしました。緊急入国等手続きのための確認を矢継ぎ早に行いました。一段落して、
「去年、主人は初めて中国に来ました。そして、是非皆さんにも見て頂きたいと熱心にこの旅行
を計画しておりました。こんなことになりましたが、どうか主人の為にも、この旅を最後まで続
けてやって下さい」。奥様が申されました。
全7日間の日程の途中3日コ−スで帰国する岡本、久保田、塚原は杭州市への移動を中止し蘇州
に留まる、他は予定通り旅を続けることにしました。明日は日曜日。明後日の月曜日に領事館と
の折衝、日本からの遺族受入を行う。以上を決め各自の部屋に散会しました。
翌朝の食事はバイキングでした。隣に来られた奥様は「なんか、全部夢の中の出来事のようで」
と一言。「せめてこの旅が終わるまで、先生と一緒に暮らしましょうね。」そう申し上げるしか
言葉はありませんでした。
9月8日、緊急に現地に来られた御子息ら3名を含め全員帰国いたしました。名古屋空港の上空
で 1時間程飛行機は旋廻待機しました。直前の夕立の影響だったのでしょうか。関西空港からの
御遺体が自宅に到着されたと同じ時刻に私たちも着陸したことになります。
9月11日、午後1時より多くの御見送りを受け御自宅て葬儀がおこなわれました。自宅前には
先生の手がけられた畑があります。出発前、きれいに草取りをされて出掛けられました。当日、
雨にうたれる長豆と忘れ形見のような花一輪がとても印象的でした。

先生、中国の技術者との交流も含め計画された全旅程を無事終えることができました。画像とメ
モによる旅行記としてここに御報告いたします。通夜までには、葬儀の日までには,と思い記述し
てまいりましたが、あまりにも多くの橋に巡り合い、多くの方のご厚情を受け,思い出は書き尽く
せません。しかし、いつかは結ばなければなりません。「結び」を書くことは先生に本当にお別
れを言う日になります。とても辛いのですが、結びといたします。
この旅は終生忘れ得ぬ旅となりました。先生、色々ありがとうございました。
安らかにお眠り下さい。
井上先生へ
2000年9月15日
Kon(昆明良 ) 合掌
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