この祭に寄せて


  僕の住んでる町から電車で15分の所に西枇杷島町はある。この尾張の地で生れ育って 50年を過ぎたが、この祭を拝見したのは去年(2000年)が初めてであった。 祭を訪れ、写真を整理してペ−ジにまとめる。そんなことをインタ−ネットに接するようになって始めた。 ペ−ジをまとめながら、どうしてここに山車が5台もと疑問がわく。図書館に足を運び、町史などを読み進むと、 その訳が分かってくる。僕の生涯学習はこんな形で3年程経った。
  僕は祭馬鹿ではないと思っている。でも、このなぞ解きは、新鮮な興奮を与えてくれる。祭は一度だけでは ほんとうの所は分からない、 翌年も訪ねてみたくなる。やはり祭は、しらずしらずに 祭馬鹿にしてしまう。多分、僕も祭馬鹿になってしまったのかもしれない。こうして惹きつけるものは、 いったい何なのだろう。
  山車は確かにすばらしい。日常、何気なく通り過ぎている町が、祭礼の日の山車曵きまわしで輝く。 西枇杷島町には5台の山車がある。各山車はそれぞれの町内会の所有物である。祭礼の伝承には 町内会の各個人の経済的負担は大きことは想像できる。かってのように、祭を後援する「お大尽」も いなくなった日本社会ではなをさらである。こうして伝承をされていることに、 まず感謝したいと思う。
  いまから200年前、この町は一番輝いていたのだろう。その面影がこの5台の山車として残されて きた。それを手がかりに、問屋記念館を手がかりに、この町の歴史を辿って見るとき西枇杷島町 教育委員会の編纂された「枇杷島市場」という歴史冊子に辿りつく。そこから、この町の町衆の 伝統と文化、心意気を読み取ることができる。
  昭和初期、昭和4年から6年にかけ、生産者、仲介者(市場)、八百屋(小売業者)、 行政と4者が織り成す青物騒動があった。江戸期に発生した株仲間を源流とする市場が この物語の主人公ではあるが、官僚統制、戦時統制という流れのなかで、この市場の 町衆がいかに行動したかを学ぶことができる。この時期、この地で3%の手数料を めぐり行われた争議は、正に日本における近代経済、市場主義の健全な形成過程であった と読み取れる。借り物でもない、輸入された理論でもない、2年に及ぶ四つ巴の争議のなかで ひとつの妥協点に到達する健全な発展過程がこの地で行われた歴史は見落としてはならない。 そして、争議仲裁者の提案に毅然としてNOといった市場会長の言に、僕はこの町の 町衆の心意気の原点を見る。この祭が100年に1度の水害を、こうして今年盛大に 開催され乗り越えていく伝統と無縁とは思えない。
  すこし観点を変えてこの歴史冊子をもう一度読み返してみる。その中で、戦時統制という影が、いかに この国の健全な近代経済、市場主義の発展を消し去ったかを思う。 この町だけでなく、多くの町で祭の火が消えていった。それは、大砲の戦端が切って おとされる以前、戦時非常体制という呼び名で官僚統制がはじまった時からであろう。 このことを読み落としてはならないと思う。
   確かに、黒船、明治維新、文明開化という不連続点は日本の歴史にはある。だか、 祭を通して、町衆文化に接する時、僕はここに不連続点が見えてこない。敗戦により軍統制は 消滅するが、それに代わる官僚統制は同じ事を継承し戦後高度成長路線 に移行したように思える。産業戦士として出ていった男達の背後で、祭の灯は復活することはなかった。むしろ、日本の不連続点は昭和12年頃の大不況で、町衆文化の消滅時点のように思われてならない。 こんなことを、祭を追っかけながら思う僕は、やはり、祭馬鹿になってしまったのだろうか。


2001.7.21
by Kon