一宮市丹陽町重吉甘酒祭
裸祭り



 甘酒祭にどうして裸衆なの?

 有名な国府宮裸祭は、下帯姿の男数百人が揉み合う勇壮な祭り。このスタイルは明治以降に定着した。群集が揉み合う時、衣服を付けていると反って危険だ。揉み合う男達に安全なよう自然と洗練されていった。奇をてらった訳ではない。
 甘酒祭の裸衆のスタイルは下帯姿にたすきがけ。この「たすき」が特徴。揉み合うことが目的でないことは確かだ。

 尾張一円の祭りには強飯(おこわ)が登場する。それが餅になり、祝事の「餅投げ」に発展する。ここの強飯撒きは、この「餅投げ」のルーツといえる。

 日本の米のルーツは縄文末期に伝来した赤米と言われる。神に献上する神饌米は「赤米」だった。今でも田植神事から始まり、すべて女人禁制で赤米を作る神社もある。
 赤米は、野生種に近く肥料なしでも育ち、病虫害に強い。だが、収穫量は現在の白米の半分にもならない。この赤米を白米に改良していったのが日本の稲作文化と言える。赤米はもち米とうるち米の二種があり、結局もち米として洗練されていった。神事に餅米が使われるのは、この伝統からである。もち米にアズキを混ぜて色まで復元した赤飯は古代神饌米の代用品ということになる。

 尾藤源内重吉(びとうげんないしげよし)の子孫である桑山氏が管理していた甘酒田と呼ばれた神田は、八幡神社に供える餅米を作っていたのだろう。代々旧暦8月15日に行っていた豊年祭り。旧暦8月15日は新暦の9月中旬頃にあたる。おそらく、早稲の餅米を植えていたのだろう。新米で甘酒を作り、強飯(おこわ)を作り神に供える。そして、お下がりとして皆に分け与えた。村落共同体を経営するリーダーの知恵ともいえる。これから収穫の時を、「皆でひと頑張りしようぜ」というメッセージが込められていた。
 祭は歓喜。興がのれば、甘酒のかけっこが始まる。迷惑な話でもあるが、節分の赤鬼、青鬼さんのように、祭には無くてはならない存在。この甘酒祭では、村の若衆や厄男が、その役回りを演じたのではないだろうか。甘酒を掛けられるのなら、最初から下帯姿でいいではないか。 それが甘酒祭に登場する裸衆なのだ。と、想像するのだが、いかがなものだろう?

2004.10.26 by Kon